対話で読みとく カスタマーハラスメント ── 介護施設編
「その要求は、正当な願いか、それを超えたものか」
七月の終わり、那覇の朝は、早くから強い日ざしと蝉の声に包まれる。江尾事務所の窓の外を、通勤の人や車が行き交っていた。
朝いちばん、所長の江尾のもとを訪ねてきたのは、事務所のスタッフのさくらであった。手には、顧問先である介護老人福祉施設、いわゆる特別養護老人ホームから寄せられた相談メモの束を抱えている。その表情には、どこか困りきった色がにじんでいたのだ。
さくら 所長、おはようございます。顧問先の介護施設から、立て続けにご相談が入っているのです。ただ、これがカスハラなのかどうか、私では線引きに自信が持てませんでした。
江尾 おはよう。介護の現場は、目の前の一つひとつの出来事が移ろいやすく、判断に迷うものが多いのです。しかし、職員を守る土台のほうは、しっかりと立てておかなければなりません。順番に見ていきましょう。
さくら そもそも、介護施設のカスハラは、ほかの業種と何がちがうのですか。
江尾 大きく四つあります。第一に、ケアが利用者の身体や生活の全般に及ぶことです。入浴や排せつの介助など、密室で一対一になる場面が多く、職員は逃げ場を持ちにくいのです。
江尾 第二に、利用者の心身の状態が多様なことです。認知症の症状や障害に起因する言動が含まれるため、悪意のある攻撃と、病気の症状とを、その場で見分けなければなりません。
江尾 第三に、家族という第三者が関わることです。契約者は利用者本人であっても、要求は同居の家族から出てくることが少なくありません。
江尾 第四に、断りにくさです。介護保険の指定基準では、正当な理由なくサービス提供を拒んではならないとされています。この応諾義務があるため、事業所は無理な要求にも我慢を重ねてしまいがちなのです。
さくら 断れないという前提があるからこそ、かえって職員が抱え込んでしまうのですね。
江尾 そのとおりです。だからこそ、事業主には別の義務がある。労働契約法第5条の安全配慮義務です。使用者は、労働者が生命や身体などの安全を確保しつつ働けるよう、必要な配慮をしなければならないと定められています。利用者を守ることと、職員を守ることは、両立させるべきものなのです。
さくら 所長、判別の物差しに入る前に、一つ気になっていることがあります。沖縄の現場には、本土とは少しちがう事情があるように感じるのです。
江尾 よい視点です。カスハラの線引きそのものは、全国共通の二つの軸で行います。しかし、その背景を読み違えると、判断を誤ります。沖縄ならではの事情を、四つ挙げておきましょう。
江尾 一つ目は、しまくとぅば、島の言葉です。認知症が進むと、人は幼いころに親しんだ言葉へと戻っていくことがあります。標準語で話していた方が、しまくとぅばだけで話すようになるのです。県外出身の職員や若い職員が、その強い響きを暴言と受け取ったり、意味が通じずに利用者を不穏にさせたりすることがあります。言葉の一つひとつを攻撃と早合点せず、意味の分かる職員や家族の力を借りることが大切です。
さくら 同じ言葉でも、方言か暴言かで、受け取り方がまるで変わってしまうのですね。
江尾 そのとおりです。二つ目は、親族の結びつきの強さです。門中と呼ばれる親族の集まりや、模合という金銭の助け合いなど、沖縄では地縁と血縁のつながりが濃く残っています。介護の方針やお金のことに、同居の家族だけでなく、広い親族が関わることが少なくありません。民間の信仰や地域の慣わしが、医療やケアの選び方に影響することもあります。
江尾 その結果、複数の親族から食い違う要求や苦情が寄せられ、事業所が板挟みになりやすいのです。窓口となるキーパーソンを一人に定め、やり取りを記録して共有することが、混乱を防ぐ鍵になります。
さくら 誰に説明したのかで、話がくい違うことも起きそうです。
江尾 起きます。三つ目は、離島やへき地の事情です。地域に事業所が一つしかない、ということが珍しくありません。利用者の側は「ほかに行き場がない」と感じ、事業所の側も、正当な理由なく断れないという応諾義務を、いっそう重く受け止めることになります。
江尾 四つ目は、地域社会の狭さです。職員と利用者の家族が、仕事を離れても顔見知りである、ということがよくあります。ですから苦情が、業務への指摘を超えて、職員個人の評判や人格への攻撃に転じやすいのです。逃げ場のなさが、被害を深くします。
さくら だからこそ、職員個人ではなく、事業所として対応することが、なおさら大切になるのですね。
江尾 そこに尽きます。沖縄は、全国でも高齢化と長寿で知られる地域です。認知症の利用者に向き合う場面も多い。土地柄を理解したうえで、次の二つの軸をあてはめていきましょう。
江尾 迷ったときは、担当者の主観で決めてはいけません。厚生労働省の「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」が示す、二つの軸にあてはめて考えます。
第一の軸は、要求内容の妥当性です。その要求が、契約や介護保険制度の範囲にあるものか、それとも範囲を超えたものかを見ます。
第二の軸は、手段・態様の相当性です。言い方、態度、拘束された時間などが、社会通念に照らして許される範囲かを見ます。
江尾 大切なのは、この二つが独立していることです。要求している内容それ自体は正当であっても、手段や態様が著しく不相当であれば、その時点でカスハラになります。
※ 内容が正当であっても、手段・態様が悪質な場合はカスハラになります。
【事例】 認知症の利用者が、入浴介助の最中に「触るな、泥棒」と叫んで職員の手を叩く。あるいは、女性職員の体に必要以上に触れて「かわいいね」と繰り返す。
さくら これは、はっきりとしたカスハラに見えます。ただ、相手は認知症の方なのです。責めてよいのか、迷ってしまいました。
江尾 ここは、二つの問いを分けて考えるのが要です。一つは「行為者本人の責任を問えるか」。もう一つは「職員の就業環境が害されているか」です。
江尾 まず責任についてです。こうした言動は、認知症の行動・心理症状、いわゆるBPSDに起因するものです。病気や障害の症状であって、故意や悪意があるわけではありません。ですから、利用者本人を叱責したり、懲罰のように契約を解除したりすることはできないのです。
さくら では、職員は我慢するほかないのですか。
江尾 いいえ、それは正反対です。「認知症だから我慢しなさい」と放置することは、事業所の安全配慮義務違反と評価されるおそれがあります。職員が受けている苦痛は、ハラスメントの被害に準じるものです。ここで守るべきは、行為者の処罰ではなく、職員のほうなのです。
江尾 ですから対応は、組織としての防衛に切り替えます。同性介護への変更、複数人での対応、ケアの手法そのものの見直しといった手立てです。BPSDには、不安や痛み、環境の不快といった引き金があることが多い。先ほどのしまくとぅばのように、言葉が通じないことへの不安も、その引き金の一つになります。引き金を減らすことが、利用者を落ち着かせ、同時に職員を守ることにもつながります。
整理すると、こうなります。行為者への責任追及という点では「×」。しかし、職員保護という点では、ハラスメントに準じて職場環境への配慮を行い、組織で対応する。この切り分けが、認知症ケアの現場では欠かせないのです。
【事例】 利用者の足に小さなあざができていた。家族が「職員が乱暴に扱ったからだ」と抗議する。医師の診断(老人性紫斑)をもとに説明しても納得せず、「納得いくまで帰らない」「担当者を解雇しろ、責任者は土下座しろ」と、事務所に三時間居座った。
さくら この場合は、そもそも施設の側に落ち度を疑われたのが発端です。家族が怒るのも、無理はないように思えました。
江尾 そこが、このケースの難しいところです。だからこそ、時間の流れのなかで、性質が変わっていく点に注目してください。
江尾 発端の部分は、正当です。家族が、身内の怪我や体の変化について説明を求めること自体は、正当な権利であり、苦情として当然のものです。ここを頭ごなしにカスハラと呼んではいけません。
江尾 ところが、途中から性質が変わります。医学的な根拠を示した説明を聞き入れず、社会通念上許されない手段に及んだ時点です。三時間もの長時間拘束、帰らないという不退去、土下座や解雇の強要です。ここに至れば、手段の相当性を著しく欠く行為に変わります。
さくら 正当な苦情が、途中からカスハラに移っていくのですね。
江尾 そのとおりです。土下座を求めることは強要にあたりえますし、退去を求めても居座り続ければ、不退去の問題も生じます。事業所は、正当な苦情には誠実に向き合いつつ、線を越えた時点で「対応を打ち切る」と判断できるよう、あらかじめ基準を決めておくことが大切なのです。
【事例】 入所している利用者の家族から、面会のたびに「居室をもっと念入りに掃除してほしい」「面会に来た私の分のお茶やお菓子も出してほしい」「近くの店まで買い物に付き添ってほしい」と頼まれる。契約や介護保険の範囲外だと説明して断ると、「冷たい」「高いお金を払っているのに、サービスが悪い」と、面会のたびに二十分以上も説教される。
さくら 契約にないことを頼まれた、という一点だけでカスハラと言ってよいものか、迷いました。
江尾 一度の依頼だけで、カスハラと決めつけてはいけません。介護保険でできること、できないことの誤解は、とても多い。制度を知らないがゆえの要望それ自体は、日常のやり取りの一つと考えるべきです。
江尾 問題になるのは、その先です。制度上できない理由をていねいに説明したあとも納得せず、面会のたびに職員をつかまえて説教を続ける。あるいは、職員個人を「冷たい」と攻撃し、業務中に不当に引き止める。ここまで来れば、業務の遂行そのものを妨げるカスハラになります。
さくら 要求そのものより、説明したあとの繰り返しと、時間の奪い方が問題なのですね。
江尾 そうです。ここでは、境界線を引き直すことが必要です。特別養護老人ホームのサービスは、あくまで入所している利用者本人の日常生活の介護であり、家族への接遇や、家族の私的な用事までは含まれません。この線は、職員個人ではなく、施設として、生活相談員やケアマネジャーが契約の場で伝えるべきものなのです。個人に断らせて孤立させてはいけません。
【事例】 家族から、毎日のように電話がかかってくる。「今日の職員の挨拶の声が小さかった」「服の畳み方が少し雑だった」といった細かな指摘を、一回に三十分以上、ていねいな敬語で延々と話し続ける。
さくら これは、言葉づかいはとても丁寧なのです。怒鳴られているわけでもありません。それでも職員は疲れきっていました。
江尾 ここが、いちばん誤解されやすいところです。暴言や大声がないからといって、カスハラではない、とは言えません。
江尾 この場合の判断材料は、頻度と時間です。毎日という頻度、そして一回三十分以上という時間によって、事業所の正常な業務運営が大きく妨げられています。ていねいな敬語であっても、総合的に見れば、就業環境を害する行為、すなわち態様の不相当にあたります。
さくら 言い方ではなく、積み重なった時間の重さで見るのですね。
江尾 そのとおりです。ですから記録では、言葉づかいの丁寧さに惑わされず、「一日に何回」「一回あたり何分」という事実を淡々と積み上げます。その数字こそが、カスハラを裏づける証拠になるのです。
さくら こうしたグレーゾーンを、現場でどう扱えばよいのでしょうか。
江尾 二つの原則があります。一つ目は、職員個人に抱え込ませないことです。グレーな事案ほど、「あの職員の接遇が足りない」「もっと我慢すべきだ」と、個人の責任に帰されがちです。判断に迷う言動があった段階で、まず記録を残し、組織へ報告する道筋を一本に定めておくことが重要になります。
江尾 二つ目は、「内容」と「言い方・時間」を分けて記録することです。何を求められたのかという要求内容と、どのような態度で、どれだけの時間にわたって行われたのかという手段・態様を、分けて客観的に書き留めます。
さくら 二つの軸を、そのまま記録の様式にも持ち込むのですね。
江尾 そうです。この分け方をしておけば、あとで警察や弁護士、行政に相談するときに、カスハラの認定がとても進めやすくなります。感情ではなく、事実の記録が、職員を守る武器になるのです。
江尾 最後に、事業主の義務を確認しておきましょう。土台は、先ほどの労働契約法第5条、安全配慮義務です。職員が心身の安全を保って働けるよう、事業主は配慮しなければなりません。カスハラを放置すれば、この安全配慮義務に反すると評価されるおそれがあります。
江尾 さらに、後ろ盾が加わります。改正された労働施策総合推進法により、カスタマーハラスメントへの防止措置が、事業主の義務として定められました。本年〔2026年〕10月に施行されます。相談体制の整備や、被害を受けた職員への配慮などが、事業主に求められることになります。
さくら 職員を守る仕組みが、努力ではなく義務として、法律に位置づけられるのですね。
江尾 そのとおりです。忘れてはならないのは、この二つが対立しないことです。落ち着いて働ける職員こそ、利用者に穏やかで安全なケアを届けられる。職員を守ることが、めぐりめぐって、利用者を守ることになるのです。
さくらが相談メモの束を閉じたころ、窓の外の日ざしは、いっそう白さを増していた。
目の前の一件ごとの言動は、揺れ動き、判断に迷う。それでも、二つの軸という物差しと、組織で守るという構えさえ据わっていれば、そして沖縄という土地柄の背景まで見通せていれば、現場は落ち着いて向き合っていける。「職員を守ることが、利用者を守ることになる」──その一言を胸に、さくらは顧問先へ向かう支度を始めたのであった。
社会保険労務士 江尻育弘
労働契約法第5条(安全配慮義務)
改正労働施策総合推進法(カスタマーハラスメント防止の措置義務。2026年〔令和8年〕10月施行)
指定介護老人福祉施設の人員、設備及び運営に関する基準(提供拒否の制限・正当な理由)
介護保険法(保険給付の範囲)
刑法(不退去罪 第130条後段/威力業務妨害罪 第234条/強要罪 第223条 ※態様が悪質な場合に問題となりうる)
厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」
※ 本資料は一般的な考え方を示すものです。個々の言動がカスハラや犯罪にあたるか、また刑法各罪の適用の有無は、個別の事案によって異なります。実際の対応にあたっては、警察や弁護士にご相談ください。