第 1 回業務災害に係る脳・心臓疾患 ── 請求1,254件・支給決定217件をどう読むか
令和8年7月15日、厚生労働省は令和7年度の「過労死等の労災補償状況」を公表しました。請求件数は6,212件で、前年度から1,402件も増えています。第1回では、そのうち脳・心臓疾患について、件数の推移、業種・職種の偏り、時間外労働時間、年齢の四つの角度から、江尾社労士とスタッフさくらの対話で読み解きます。
8月の中城村である。旧盆が近い。夕暮れの路地からは、どこからともなくエイサーの太鼓が響いてくる。パーランクーの乾いた音が、中城湾から吹き上げる湿った風にのって、事務所の窓を叩いた。
江尾社労士事務所の机の上には、7月半ばに厚生労働省が公表したばかりの資料が広げられている。「令和7年度 過労死等の労災補償状況」。六つの別添資料に、細かな数字がびっしりと並んでいた。
沖縄では、旧盆の中日に先祖を迎え、ウークイの夜に送り出す。帰ってこられなかった人のことを思う季節でもある。江尾は、資料の「うち死亡」という欄に目を落としたまま、しばらく動かなかった。
◇ ◇ ◇
さくら
先生、ハイサイ。厚労省から出た「過労死等の労災補償状況」、拝見しました。数字が多くて、どこから見ればよいのか分かりません。顧問先には、何をお伝えすればよいのでしょうか。
江尾
ハイサイ、さくらさん。よい問いです。まず、全体の輪郭からいきましょう。令和7年度の請求件数は6,212件。前の年度より1,402件も増えました。決定件数は4,692件、支給決定件数は1,310件です。
さくら
請求が1,400件も増えたのですか。それは、働き方がそれだけ厳しくなったということでしょうか。
江尾
そう決めつけてはいけません。請求件数は、あくまで「労災保険給付を請求した件数」です。増える理由は二つあります。実際に労災に当たる事案が増えた場合と、これまで泣き寝入りしていた人が請求するようになった場合です。どちらが効いているかは、支給決定件数と並べて見なければ分かりません。
さくら
その支給決定件数は、1,310件で、前年度からたった5件の増加ですね。
江尾
そこが今回の資料のいちばんの読みどころです。請求は1,400件増えたのに、認められた件数はほとんど動いていない。つまり、分母だけが大きく膨らんだのです。では、脳・心臓疾患から順に見ていきましょう。
5年間の推移 ── 請求は最多、支給決定は減少
図1 業務災害に係る脳・心臓疾患の請求・決定・支給決定件数の推移
出典:厚生労働省「令和7年度 過労死等の労災補償状況」別添資料1・表1-1
数値表を開く
| 年度 |
請求 |
決定 |
支給決定 |
認定率 |
| 令和3年度 |
753 |
525 |
172 |
32.8% |
| 令和4年度 |
803 |
509 |
194 |
38.1% |
| 令和5年度 |
1,023 |
667 |
216 |
32.4% |
| 令和6年度 |
1,030 |
784 |
241 |
30.7% |
| 令和7年度 |
1,254 |
811 |
217 |
26.8% |
さくら
脳・心臓疾患の請求は1,254件。5年前の753件から、6割以上も増えています。
江尾
はい。しかも支給決定件数は217件で、前年度の241件から24件減りました。請求が224件増えて、認められた件数は減った。この二つの矢印が、逆を向いているのです。
図2 認定率(決定件数に占める支給決定件数の割合)の推移
出典:同 別添資料1・表1-1、別添資料2・表2-1。認定率は、決定件数に占める支給決定件数の割合(資料の注5による)

さくら
脳・心臓疾患は令和4年度の38.1%から、26.8%まで下がっています。認定が厳しくなったのですか。
江尾
認定基準そのものは、令和3年9月に改定されて以降、変わっていません。むしろ、あのときの改定で、労働時間だけでなく、勤務間インターバルが短い勤務や、休日のない連続勤務、出張の多い業務といった負荷要因が、はっきりと評価対象に加わりました。基準は緩やかになった側面すらあるのです。
江尾
断定はできない、というのが正確な答えです。この比率は、その年度に決定された件数を分母にしています。請求から決定までには時差がありますから、分子と分母は同じ集団ではありません。分母には、前年度以前に請求されたものの決定も含まれています。ですから、この一つの比率だけで、審査が厳しくなったとも、緩くなったとも言えないのです。
江尾
言えるのは二つの事実だけです。請求が急増していること。そして、支給決定件数がそれに追いついていないこと。その先の理由──制度が知られて請求の裾野が広がったのか、審査の運用が変わったのか──は、この統計だけでは分かりません。私は前者の要素が大きいと見ていますが、それはあくまで見立てです。
さくら
なるほど。数字の上下だけを見て、「認められにくくなった」と顧問先にお伝えしては、間違いになるのですね。
江尾
そのとおり。逆に「裾野が広がっただけだ」と言い切るのも、同じくらい危ういのです。分子と分母、両方を見る。そして、統計が示す事実と、私たちの見立てを、分けて伝える。天ぷらの衣だけ見て、中身を語ってはいけません。
どの業種で、どの職種で起きているか
図3 脳・心臓疾患の業種別 支給決定件数(令和7年度)
出典:同 別添資料1・表1-2

さくら
運輸業、郵便業が64件で、突出しています。2番目の卸売業、小売業が37件ですから、ほぼ倍ですね。
江尾
そうです。中分類まで下りると、もっとはっきりします。道路貨物運送業だけで50件。支給決定217件のうち、およそ4件に1件が、トラックの世界で起きているのです。
図4 脳・心臓疾患の職種別 支給決定件数(令和7年度)
出典:同 別添資料1・表1-3

江尾
同じです。輸送・機械運転従事者が55件。中分類では自動車運転従事者が53件で、堂々の第1位です。運転する仕事は、拘束時間が長く、深夜に及び、休日が不規則になりやすい。三つの負荷要因が、同時に重なるのです。
さくら
運送業の顧問先には、何をお伝えすればよいでしょうか。
江尾
改善基準告示です。令和6年4月から、自動車運転者の拘束時間や休息期間のルールが強まりました。トラック運転者なら、1年の拘束時間は原則3,300時間、1日の休息期間は継続11時間を基本とし、9時間を下回らない。この数字が守られているか、実際の運行記録で確かめてください。就業規則に書いてあるかどうかではなく、動いている数字を見るのです。
江尾
はい。それから、卸売業・小売業が37件、宿泊業・飲食サービス業が19件と続きます。中分類では、飲食店が13件。人手が足りず、店長ひとりに負荷が集まる構図が透けて見えます。
時間外労働時間 ── 60時間以上80時間未満が最も多い
図5 脳・心臓疾患の時間外労働時間別 支給決定件数(令和7年度)
出典:同 別添資料1・表1-6(評価期間1か月と2〜6か月の合計)

さくら
60時間以上80時間未満が53件で、いちばん多いのですね。80時間以上100時間未満の49件より多い。これは意外でした。
江尾
ここは読み方に気をつけるところです。まず、この表は評価期間1か月の件数と、評価期間2〜6か月平均の件数を合わせたものです。そのうえで、令和7年度は60時間以上80時間未満が53件で最も多かった。これが事実です。
さくら
80時間に届いていなくても、認められるのですか。
江尾
認められます。資料の注記に、はっきり書かれています。評価期間1か月については100時間未満、評価期間2〜6か月については80時間未満で支給決定した事案には、労働時間以外の負荷要因を認め、客観的かつ総合的に判断したものも含む、と。令和3年9月の認定基準改定を反映した記述です。
さくら
その、労働時間以外の負荷要因とは、具体的には何でしょう。
江尾
資料の注記にも並んでいます。勤務時間の不規則性──拘束時間の長い勤務、休日のない連続勤務、勤務間インターバルが短い勤務、不規則な勤務や交替制勤務、深夜勤務。それから、事業場外における移動を伴う業務、つまり出張の多い業務。さらに、心理的負荷を伴う業務、身体的負荷を伴う業務、そして作業環境──温度環境や騒音です。
さくら
残業時間だけを見ていては、危険を見落とすということですね。
江尾
そう申し上げてよいと思います。ただし、80時間という水準の重みが下がったわけではありません。発症前2か月ないし6か月にわたって1か月あたりおおむね80時間を超える時間外労働は、業務と発症との関連が強いと評価される。そこは変わっていません。付け加わったのは、それに至らない場合でも、労働時間以外の負荷要因とあわせて総合的に評価される道がある、ということです。
江尾
勘所は一つではありません。月70時間だから安全、という管理は成り立ちません。深夜勤務が続いていないか。2週間、休みなく出ていないか。前の勤務との間隔が11時間を切っていないか。時間数と併せて、そこを見るのです。
さくら
勤務間インターバル制度は、努力義務でしたね。
江尾
労働時間等設定改善法上の努力義務です。義務ではありませんが、過労死等防止対策大綱では、導入企業割合を高める数値目標が掲げられています。今のうちに就業規則へ盛り込んでおけば、いざというときの安全配慮義務の履行を示す材料にもなります。
年齢と就労形態 ── 50代・60代に集中する
図6 脳・心臓疾患の年齢別 支給決定件数(令和7年度)
出典:同 別添資料1・表1-4

さくら
50代が79件、60歳以上が63件。合わせて142件ですから、全体の65%を超えます。
江尾
はい。40代の58件を加えれば、200件。40歳以上で、実に92%を占めます。高年齢者の雇用が広がるなかで、この層の健康管理をどう組み立てるかは、避けて通れません。
江尾
支給決定217件のうち、正規職員・従業員が174件。ただ、見落とせないのは特別加入者です。中小事業主等が8件、一人親方等・特定作業従事者が2件。社長ご自身が倒れる例も、決して少なくないということです。
江尾
そのとおり。特別加入をしているかどうか、健診を受けているかどうか。顧問先の社長には、遠慮せずお尋ねしてよい事柄です。
実務メモ 脳・心臓疾患の予防で確認する五点
一つ、時間外労働の実績を、単月だけでなく2〜6か月平均で把握しているか。二つ、月80時間超の労働者に対する医師の面接指導が、申出を待たずに案内されているか。三つ、勤務間インターバル、連続勤務日数、深夜勤務の回数を、時間数とは別に管理しているか。四つ、定期健康診断の有所見者について、二次健診等給付や就業上の措置につないでいるか。五つ、自動車運転者については、改善基準告示の拘束時間・休息期間が運行記録の上で守られているか。
第1回のまとめ
第一に、脳・心臓疾患の請求件数は1,254件と大きく伸びた一方で、支給決定件数は217件と前年度から24件減りました。支給決定件数を決定件数で除した割合(資料でいう認定率)は26.8%です。ただし請求から決定までには時差があり、分母には前年度以前の請求分の決定も含まれます。この比率のみで審査の傾向を断定することはできません。
第二に、支給決定は運輸業・郵便業(64件)と自動車運転従事者(53件)に集中しており、拘束時間・休息期間の管理、すなわち改善基準告示の遵守が、この業種の最優先課題だということです。
第三に、時間外労働時間別(評価期間1か月と2〜6か月平均の合計)では、60時間以上80時間未満が53件と最多でした。資料の注記のとおり、この区分には労働時間以外の負荷要因を認めて総合的に判断された事案が含まれます。時間数だけでなく、勤務間インターバル、連続勤務、深夜勤務、出張といった負荷要因を併せて管理する必要があります。
第 2 回業務災害に係る精神障害 ── 請求4,958件、そのほとんどは時間の問題ではない
第2回は、精神障害です。請求件数は4,958件と過去最多を更新し、脳・心臓疾患の約4倍に達しました。支給決定1,082件の内訳を、出来事別・業種職種別・時間外労働時間別・年齢別に追いながら、顧問先で今すぐ手を打てる論点を整理します。
翌朝、事務所の窓を開けると、中城湾のむこうに抜けるような青空が広がり、ゆうべの太鼓の名残のような静けさが街に残っていた。さくらが、2冊目の資料をめくっている。別添資料2、精神障害の労災補償状況である。
頁をめくる手が、途中で止まった。「上司等から、身体的攻撃、精神的攻撃等のパワーハラスメントを受けた」。その行の数字を、さくらはじっと見ていた。
◇ ◇ ◇
さくら
先生、精神障害のほうは、桁が違いますね。請求が4,958件。前年度の3,780件から、1,178件も増えています。
江尾
はい。全体の請求6,212件のうち、実に8割が精神障害です。脳・心臓疾患のおよそ4倍。件数の上では、過労死等の労災補償の中心は、もはや心の領域にあります。
図7 業務災害に係る精神障害の請求・決定・支給決定件数の推移
出典:厚生労働省「令和7年度 過労死等の労災補償状況」別添資料2・表2-1
数値表を開く
| 年度 |
請求 |
決定 |
支給決定 |
うち自殺(支給決定) |
| 令和3年度 |
2,346 |
1,953 |
629 |
79 |
| 令和4年度 |
2,683 |
1,986 |
710 |
67 |
| 令和5年度 |
3,575 |
2,583 |
883 |
79 |
| 令和6年度 |
3,780 |
3,496 |
1,056 |
88 |
| 令和7年度 |
4,958 |
3,839 |
1,082 |
76 |
さくら
支給決定は1,082件。5年前の629件から、7割以上増えています。
江尾
そうです。ただし、前年度からの伸びは26件にとどまりました。ここでも、請求の伸びに対して認定の伸びは緩やかで、認定率は28.2%まで下がっています。
さくら
自殺は、76件ですね。前年度の88件から減っています。
江尾
減りました。ただ、未遂を含む数字であること、そして76件の背後に、それぞれの人生と、遺されたご家族がおられることを、忘れてはなりません。数字を数字として扱いつつ、重さを見失わない。ここが、私たちの仕事の難しいところです。
何が原因で認定されているのか ── 出来事別の内訳
図8 精神障害の出来事別 支給決定件数(令和6年度・令和7年度の比較)
出典:同 別添資料2・表2-8(主な出来事を抜粋。分類は令和5年9月1日付け基発0901第2号「心理的負荷による精神障害の認定基準について」別表1による)

さくら
パワーハラスメントが222件で、変わらず最多ですね。
江尾
はい。ただ、注目すべきは伸びのほうです。セクシュアルハラスメントが105件から127件へ、22件増えました。顧客や取引先、施設利用者等からの著しい迷惑行為──いわゆるカスタマーハラスメントが、108件から127件へ、19件増えています。そして、同僚等からの暴行またはひどいいじめ・嫌がらせが、44件から62件へ。4割の増加です。
さくら
上司からのパワハラは横ばいで、その周辺が増えている、ということでしょうか。
江尾
そう読めます。ハラスメントの重心が、上司と部下という縦の関係から、同僚どうしの横の関係、そして顧客と従業員という外の関係へ、広がってきているのです。
さくら
カスタマーハラスメントについては、法改正がありましたね。
江尾
よく覚えていました。令和7年6月に公布された改正労働施策総合推進法により、カスタマーハラスメント対策が事業主の措置義務となります。施行は令和8年10月1日。もう2か月足らずです。求職者等に対するセクシュアルハラスメント、いわゆる就活セクハラへの対応も、あわせて義務化されます。
さくら
2か月。顧問先には、何から着手していただきましょう。
江尾
まず、方針の明確化と周知・啓発です。カスハラを行ってはならない旨と、行為者への対処方針を定め、社内に周知する。次に、相談体制の整備。既存のハラスメント相談窓口に、顧客対応も含まれることを明示するのが早道です。そして、事後の迅速・適切な対応。事実確認、被害者への配慮、再発防止。この三本柱です。
さくら
既存の窓口を使えるのは、中小企業にとってありがたいですね。
江尾
はい。一から作らなくてよいのです。ただし、窓口担当者に「これはお客様のことだから」と門前払いさせないこと。そこだけは、はっきり指示しておく必要があります。
さくら
「仕事内容・仕事量の大きな変化」が113件、「悲惨な事故や災害の体験、目撃」が110件と、これも多いですね。
江尾
後者は87件から110件へ、23件も増えています。人身事故に遭遇した運転者、急変に立ち会った介護職員、労災現場を目撃した同僚。惨事ストレスへのケアは、これまで見過ごされがちでした。事故が起きた後、当事者だけでなく、目撃した人にも声をかける。その一手間を、防災マニュアルに書き加えておくべきです。
どの業種で、どの職種で ── 医療・福祉の突出
図9 精神障害の業種別 支給決定件数(令和7年度)
出典:同 別添資料2・表2-2

さくら
医療、福祉が292件。全体の27.0%です。2位の製造業158件を大きく引き離しています。
江尾
中分類で見ると、社会保険・社会福祉・介護事業が151件、医療業が139件。合わせて290件です。請求件数でも、この二つが1位と2位を占めています。
図10 精神障害の職種別 支給決定件数(令和7年度)
出典:同 別添資料2・表2-3

さくら
職種では、専門的・技術的職業従事者が296件で最多。中分類では、保健師・助産師・看護師が105件ですね。
江尾
はい。介護サービス職業従事者が68件、社会福祉専門職業従事者が41件。ケアの現場に、負荷が集中しています。理由は、はっきりしています。利用者やご家族からの迷惑行為に直接さらされる。夜勤がある。人手が足りない。そして、感情労働です。
さくら
医療・福祉の顧問先には、優先的に手を打つべきということですね。
江尾
そのとおりです。カスハラ措置義務化は、この業種にとって特に重い意味を持ちます。患者やご家族からの暴言・暴力について、これまで「そういうものだ」と現場が呑み込んできたものを、組織として拒否する方針を掲げる。それだけでも、現場の空気は変わります。
江尾
よい着眼です。精神障害の請求4,958件のうち、女性が2,597件。52.4%と、半数を超えました。支給決定1,082件でも、女性は530件で49.0%です。脳・心臓疾患の支給決定217件のうち女性が15件、6.9%にとどまるのと、対照的です。
さくら
同じ「過労死等」でも、現れ方が男女で違うのですね。
江尾
違います。だからこそ、対策も別に立てる必要があります。長時間労働の是正だけでは、女性に多い精神障害のリスクには届かない、ということです。
労働時間で説明できない ── 「その他」699件の意味
図11 精神障害の時間外労働時間別 支給決定件数(令和7年度)
出典:同 別添資料2・表2-6

さくら
先生、これは驚きました。「その他」が699件。全体の64.6%です。
江尾
ここが、精神障害を読むうえでの最大の勘所です。資料の注記にこうあります。「その他」の件数は、出来事による心理的負荷が極度であると認められる事案等、労働時間を調査するまでもなく明らかに業務災害と認定した事案の件数である、と。
さくら
つまり、労働時間を調べるまでもなかった、と。
江尾
そういうことです。パワハラ、セクハラ、カスハラ、いじめ。これらは、残業ゼロの職場でも起こります。心理的負荷が強ければ、労働時間の長短にかかわらず認定される。3分の2が、この類型なのです。
さくら
労働時間管理を徹底すれば精神障害の労災は防げる、ということではないのですね。
江尾
労働時間管理だけでは足りない、というのが正確なところです。100時間以上120時間未満に52件あるように、長時間労働が背景にある事案も現に存在します。しかし、それだけでは全体の3分の1しか説明できません。
さくら
そちらには、どう手を打てばよいのでしょう。
江尾
三つあります。一つは、ハラスメントを起こさせない仕組み──方針の明確化、管理職研修、相談窓口。二つは、早期に気づく仕組み──ストレスチェック、上司との定期的な一対一の面談、勤怠の異変の把握。三つは、起きたときに正しく処理する仕組み──事実確認の手順、被害者の保護、行為者への措置、そして職場復帰支援です。
さくら
ストレスチェックといえば、50人未満の事業場にも義務が広がると聞きました。
江尾
はい。令和7年5月に公布された改正労働安全衛生法により、常時50人未満の事業場にもストレスチェックの実施が義務づけられます。施行は令和10年、2028年の見込みです。まだ先のようでいて、体制づくりには時間がかかります。今から、産業保健総合支援センターの地域窓口の使い方を、顧問先に案内しておくとよいでしょう。
年齢と就労形態 ── 20代・30代も厚い
図12 精神障害の年齢別 支給決定件数(令和7年度)
出典:同 別添資料2・表2-4

さくら
40代が294件で最多ですが、20代236件、30代243件も、かなり多いですね。脳・心臓疾患とは、まるで形が違います。
江尾
まったく違います。脳・心臓疾患は50代・60代に集中し、20代は5件でした。精神障害では、20代だけで236件。20代から50代まで、どの年代も200件を超えています。若い人が心を病むのです。
江尾
含まれます。だからこそ、新入社員への研修だけでなく、受け入れる側の教育が要ります。指導のつもりの言動が、相手にとっては人格の否定になっていないか。ここは、管理職研修の中心に据えるべきところです。
図13 精神障害の就労形態別 支給決定件数(令和7年度)
出典:同 別添資料2・表2-7

さくら
正規職員・従業員が908件で、圧倒的です。ただ、パート・アルバイトが86件、契約社員が51件、派遣労働者が22件と、非正規の方も159件おられます。
江尾
そこが大事です。とくに派遣労働者は、指揮命令する派遣先と、雇用する派遣元が分かれています。派遣先でハラスメントが起きたとき、誰が対応するのか。あらかじめ取り決めておかなければ、たらい回しになります。
江尾
あります。労働者派遣法により、派遣先も自らが雇用する事業主とみなされ、ハラスメントの防止措置を講じる義務を負います。派遣先の顧問先には、ここを必ずお伝えしてください。
実務メモ 精神障害の予防で確認する六点
一つ、ハラスメント防止方針にカスタマーハラスメントが含まれているか(令和8年10月1日から措置義務)。二つ、相談窓口が顧客・取引先からの行為も受け付けることを明示しているか。三つ、管理職に対し、心理的負荷評価表の「具体的な出来事」を素材とした研修を行っているか。四つ、悲惨な事故・災害を目撃した従業員へのフォロー手順が定められているか。五つ、ストレスチェック(50人未満の事業場は令和10年見込みで義務化)と面接指導の運用が形骸化していないか。六つ、派遣労働者について、派遣先・派遣元の役割分担が取り決められているか。
第2回のまとめ
第一に、精神障害の請求件数は4,958件と過去最多で、全請求の約8割を占めます。支給決定は1,082件、うち自殺は76件でした。件数の上では、精神障害への対応の重要性が一層高まっていることがうかがえます。
第二に、出来事別ではパワーハラスメント222件が最多ですが、伸びが大きいのはセクシュアルハラスメント(105→127件)、顧客等からの著しい迷惑行為(108→127件)、同僚等からの暴行・ひどいいじめ(44→62件)です。令和8年10月1日施行のカスハラ措置義務化に向け、方針・窓口・事後対応の三本柱を整える時期に来ています。
第三に、時間外労働時間別では「その他」が699件(64.6%)を占めました。資料の注記によれば、これは出来事による心理的負荷が極度であると認められる事案等、労働時間を調査するまでもなく業務災害と認定した事案です。長時間労働の是正に加えて、ハラスメント、顧客等からの迷惑行為、そして相談と初動対応の体制整備が欠かせません。
第 3 回複数業務要因災害と裁量労働制対象者 ── 副業・兼業と「みなし」の落とし穴
最終回は、件数こそ小さいものの、これからの労務管理を左右する二つの論点です。一つは、複数の事業場の負荷を合算して評価する「複数業務要因災害」。もう一つは、裁量労働制の対象者に関する労災補償状況です。
夕方、事務所に西日が差し込んでいた。残る資料は四つ。別添資料3から6まで、どれも1枚か2枚の薄いものである。
「先生、これは飛ばしてもよいのでは」と言いかけて、さくらは口をつぐんだ。江尾が、いちばん熱心に読んでいたのが、その薄い資料だったからである。
◇ ◇ ◇
さくら
先生、別添資料の4と5、複数業務要因災害というのは、何でしょうか。
江尾
令和2年9月1日から始まった仕組みです。複数の会社で働く人が、そのどれか一つの事業場の負荷だけでは労災と認められない場合に、すべての就業先の業務上の負荷を合わせて評価する。それでも業務起因性が認められれば、複数業務要因災害として給付する、というものです。
さくら
副業・兼業をしている方のための制度、ということですね。
江尾
そのとおりです。かつては、A社で40時間、B社で40時間の残業をしていても、それぞれ単独では過労死ラインに届かないとして、労災にならなかった。それを是正したのが、この仕組みです。
図14 複数業務要因災害の決定件数の推移
出典:厚生労働省「令和7年度 過労死等の労災補償状況」別添資料4・表4-1、別添資料5・表5-1

図15 複数業務要因災害の支給決定件数の推移
出典:同 別添資料4・表4-1、別添資料5・表5-1

さくら
脳・心臓疾患の決定件数が25件、支給決定が7件。精神障害は決定17件、支給決定4件。合わせても、決定42件、支給決定11件ですね。数としては、ずいぶん小さいです。
江尾
小さい。しかし、伸び方を見てください。脳・心臓疾患の決定件数は、令和3年度の8件から、5年で3倍以上になりました。精神障害は0件から17件です。副業・兼業が広がるにつれて、確実に増えています。
さくら
請求件数の欄が空いているのは、なぜでしょう。
江尾
注記にあります。複数業務要因災害の請求は、業務災害の請求と区別されずに行われるからです。つまり、労働者は「複数業務要因災害として請求します」と言うわけではない。労働基準監督署が、調査の過程で、他社での就労を把握して、そちらの枠組みで判断するのです。
さくら
ということは、会社が副業を把握していないと、調査の段階で手間取りますね。
江尾
そのとおりです。ここが実務上の肝です。副業・兼業の促進に関するガイドラインでは、労働者からの申告等により、副業・兼業の有無や内容を確認することが示されています。法律が一律に届出制を義務づけているわけではありませんが、就業規則に申告の仕組みを定めておくのが実務的です。単に「副業を認める」だけでは足りません。
江尾
労働基準法第38条第1項により、事業場を異にする場合でも労働時間は通算されます。割増賃金の支払義務が生じる場面もあります。ただし、これは労働者として複数の事業場で雇用される場合の話です。個人事業主やフリーランスとして受ける仕事は、労働時間の通算の対象になりません。実務では管理モデル──あらかじめ各社の労働時間の上限を設定し、その範囲内で労働させる方式──を用いるのが現実的でしょう。
さくら
労災のほうの複数業務要因災害とは、同じ話でしょうか。
江尾
そこは、はっきり分けてください。複数業務要因災害は、各就業先の業務上の負荷を合わせて総合的に評価する労災保険の仕組みです。労働基準法上の労働時間の通算とは、別の枠組みなのです。同じものとして説明すると、顧問先を混乱させます。
江尾
健康診断や長時間労働者への面接指導は、それぞれの会社が自社の労働時間に基づいて行う建前です。しかし、それでは実態を見誤ります。ガイドラインでも、使用者が労働者の健康状態に配慮することが望ましいとされています。副業先を含めた総労働時間を申告してもらい、必要なら産業医に相談する。ここは、任意でも積み上げておくべきところです。
さくら
「うちの労働時間だけを見ていればよい」とは言えない時代になったのですね。
江尾
言えません。労災は、会社の垣根を越えて評価されます。ならば、健康管理も垣根を越えて考える。そうでなければ、辻褄が合いません。
裁量労働制対象者 ── 精神障害の支給決定が倍以上に
図16 業務災害に係る裁量労働制対象者の精神障害 決定・支給決定件数の推移
出典:同 別添資料3・表3

さくら
裁量労働制の対象者では、精神障害の支給決定が令和6年度の4件から、令和7年度は9件へ。倍以上になっています。
江尾
はい。決定件数も23件から27件へ増えました。内訳を見ると、専門業務型が決定22件・支給決定9件。企画業務型は決定5件で、支給決定はありませんでした。脳・心臓疾患のほうは、決定6件・支給決定2件です。
さくら
この資料の注記に、気になる一文があります。「裁量労働制として働いていたが法定要件を満たしていない事案も含めて集計している」。
江尾
よく見つけました。そこが、いちばんお伝えしたいところです。会社が裁量労働制のつもりで運用していても、法律上の要件を満たしていなければ、それは裁量労働制ではありません。ただの、労働時間管理をしていない状態です。
江尾
みなし労働時間の効力が生じません。実労働時間で計算し直すことになり、割増賃金の未払いが一気に膨らみます。加えて、労働時間を把握していなかったという事実が、安全配慮義務違反を基礎づける材料にもなります。
さくら
令和6年4月から、裁量労働制のルールが変わりましたね。
江尾
変わりました。まず、専門業務型についても、本人の同意を得ることが必要になりました。同意をしなかった場合に不利益な取扱いをしないこと、そして同意の撤回の手続を、労使協定に定めなければなりません。企画業務型でも、同意の撤回手続と、対象労働者に適用される賃金・評価制度の内容について、労使委員会に説明することが求められます。
さくら
健康・福祉確保措置も、整理されたと聞きました。
江尾
はい。勤務間インターバルの確保、深夜業の回数制限、労働時間の上限措置といった事業場全体の措置と、医師の面接指導や年次有給休暇の付与といった個々の労働者への措置。この二つの区分から、それぞれ一つ以上を選ぶことが望ましいとされました。協定や決議に、この措置がきちんと書き込まれ、かつ実際に運用されているか。ここを点検してください。
さくら
裁量労働制を入れている顧問先には、いま一度、棚卸しが必要ですね。
江尾
必要です。対象業務が本当に該当するか。労使協定・労使決議の内容が改正に対応しているか。本人同意を書面で取り、撤回手続を定めているか。定期報告を行っているか。健康・福祉確保措置が実際に動いているか。そして、みなし時間と実態がかけ離れていないか。この六点です。
さくら
複数業務要因災害のほうでも、裁量労働制の資料がありました。別添資料6ですね。
江尾
はい。こちらは令和7年度に、脳・心臓疾患で初めて決定4件・支給決定1件が計上されました。専門業務型です。令和6年度までは、すべて0件でした。副業・兼業と裁量労働制が重なる働き方が、現実に現れ始めたということです。
さくら
裁量があるからといって、健康が守られるわけではない、ということですね。
江尾
そのとおりです。裁量とは、時間配分を自分で決められるということであって、仕事の量が減ることではありません。むしろ、締切と責任だけが残り、際限なく働いてしまうことがある。だからこそ、健康・福祉確保措置が制度の中に組み込まれているのです。
実務メモ 副業・兼業と裁量労働制の点検項目
副業・兼業については、就業規則に申告の仕組みを定めているか、労働者として雇用される副業について労働時間の通算を行っているか、管理モデルの採用を検討したか、副業先を含む勤務状況・休息・健康状態・負荷要因を確認できる手順があるか。裁量労働制については、制度類型(専門業務型・企画業務型)に応じて、対象業務の該当性、労使協定または労使決議の令和6年4月改正への対応、本人同意および同意の撤回の取扱い、定期報告、健康・福祉確保措置の実施状況、みなし時間と実態の乖離の有無。これらを、年に一度は棚卸ししてください。
第3回のまとめ
第一に、複数業務要因災害は決定42件・支給決定11件と件数こそ小さいものの、令和3年度から一貫して増加しています。請求段階では業務災害と区別されないため、会社が副業・兼業を把握していなければ調査が難航します。申告により副業・兼業の有無と内容を把握する仕組みを整え、必要に応じて勤務状況、休息、健康状態、負荷要因を確認できる体制を設けておくことが実務上の備えになります。
第二に、裁量労働制対象者の精神障害の支給決定は、令和6年度の4件から令和7年度は9件へと倍以上に増えました。専門業務型が9件すべてを占めています。
第三に、資料の注記によれば、この集計には「裁量労働制として働いていたが法定要件を満たしていない事案」も含めて計上されています。制度類型に応じて、労使協定または労使決議が令和6年4月の改正に対応しているか、本人同意と同意の撤回の取扱いが整っているか、健康・福祉確保措置が実際に動いているか。この三点を、あらためて点検すべき時期です。
第 4 回沖縄と全国 ── 何が同じで、何が違うか
顧問先からよく寄せられるのが、「沖縄は本土と事情が違うのだから、全国の統計はあまり当てにならないのではないか」という問いです。最終回では、令和7年度の都道府県別データに労働力調査の雇用者数を重ね、沖縄県と全国で何が同じで、何が違うのかを整理します。
旧盆が明けた。中城城跡の石垣のうえに立つと、眼下に中城湾がひろがり、その向こうに勝連半島がかすんで見える。琉球石灰岩の白い壁は、500年の風雨をくぐってなお、なめらかな曲線を保っていた。
石を積むとき、職人は、大きな石も小さな石も同じ理屈で積む。大きさが違うだけで、積み方が違うわけではない。江尾は、そんなことを考えながら、資料の都道府県別の頁を思い出していた。
◇ ◇ ◇
さくら
先生、顧問先から「沖縄は本土と事情が違うのだから、労災の話もあまり参考にならないのでは」と言われてしまいました。どうお答えすればよいでしょう。
江尾
よく聞かれる問いです。結論から申しますと、違うのは件数の大きさと、その数字を読むときの慎重さだけで、中身はほとんど同じです。まず、同じ点から順に見ていきましょう。
同じ点その1 ── 制度も基準も、全国一律である
江尾
一つ目。適用される法律と認定基準は、全国一律です。労働基準法も労働安全衛生法も、脳・心臓疾患や精神障害の認定基準も、沖縄県の事業場だけが緩く、あるいは厳しく扱われることはありません。令和8年10月1日のカスタマーハラスメント措置義務化も、令和10年見込みのストレスチェックの対象拡大も、同じ日に、同じ内容で県内にやってきます。
さくら
「沖縄だから、まだ先の話」ということはないのですね。
江尾
ありません。ここは、はっきりお伝えしてください。むしろ、施行日から逆算すれば、残された時間は本土の会社と1日も違わないのです。
同じ点その2 ── 労災の重心が「心」へ移っている
江尾
二つ目。労災の重心が、身体から心へ移っているという流れも、沖縄で同じです。令和7年度、沖縄県の請求は、脳・心臓疾患が11件、精神障害が53件。合わせて64件のうち、82.8%が精神障害でした。
さくら
全国は79.8%でしたから、沖縄のほうが、わずかに高いくらいですね。
図17 過労死等の請求件数に占める構成比(沖縄県/全国)
出典:厚生労働省「令和7年度 過労死等の労災補償状況」別添資料1・表1-5、別添資料2・表2-5から算出

江尾
ほとんど同じ形でしょう。県の規模が小さいから件数が少ないだけで、内訳の形は変わりません。石垣と同じです。石の大きさは違っても、積み方の理屈は同じなのです。
同じ点その3 ── リスクの高い業種が、県の主力産業と重なる
江尾
三つ目。支給決定の多い業種が、沖縄の主力産業とそのまま重なっていることです。全国で精神障害の支給決定が多いのは医療・福祉、製造業、卸売業・小売業。脳・心臓疾患は運輸業・郵便業、宿泊業・飲食サービス業でした。このうち医療・福祉、宿泊・飲食、運輸は、いずれも県内の雇用を支える柱です。
さくら
観光と介護と物流。まさに、うちの顧問先の顔ぶれです。
江尾
そうでしょう。ですから、全国のデータは他人事ではありません。むしろ、沖縄の産業構成では、全国の傾向がそのまま自社のリスクとして当てはまりやすい。ここは、強調してお伝えすべきところです。
違う点その1 ── 件数の規模は、人口規模どおりに収まっている
江尾
一つ目は、件数の規模です。ただし、これは「沖縄が特別に多い、少ない」という話ではありません。労働力調査によれば、令和7年7月の沖縄県の雇用者数は65万8千人。全国は令和7年平均で6,185万人ですから、沖縄のシェアは1.06%です。
さくら
では、労災の請求も1%くらいなのでしょうか。
図18 沖縄県が全国に占める割合(雇用者数と労災補償)
出典:同 別添資料1・表1-5、別添資料2・表2-5、総務省「労働力調査」および沖縄県「労働力調査」から算出

さくら
過労死等の請求が1.03%。雇用者のシェアと、ほとんど同じです。
江尾
そうです。精神障害の請求は1.07%、脳・心臓疾患の請求は0.88%。いずれも人口規模どおりの範囲に収まっています。「沖縄は過労死が多い県だ」とも「少ない県だ」とも、この数字からは言えません。
さくら
ただ、支給決定のほうは少し高く出ていますね。精神障害が1.76%です。
江尾
鋭いところに気づきました。それが、次の話につながります。
違う点その2 ── 母数が小さく、数字が大きく振れる
さくら
沖縄県の精神障害は、決定41件で支給決定19件でした。認定率を計算すると、46.3%。全国の28.2%より、ずいぶん高いです。
江尾
よく計算しました。決定件数が30件以上の県で並べると、沖縄は新潟、滋賀に次いで3番目に高い。しかし、ここで「沖縄は認められやすい」と結論してはいけません。
江尾
母数が小さいからです。決定41件のうち1件が動けば、認定率は2.4ポイント変わります。全国は3,839件が母数ですから、1件では0.03ポイントしか動かない。県別の数字は、年ごとの振れが大きいのです。
さくら
単年の数字で判断してはいけない、ということですね。
江尾
そのとおり。県別の数値は、3年、5年と並べて、はじめて傾向が見えます。それから、もう一つ大切な注意があります。都道府県別の集計は、請求のあった労働基準監督署の所在地でまとめられているのです。企業の本社がどこにあるか、働いている人がどこに住んでいるかとは、必ずしも一致しません。
さくら
本社が県外の会社でも、県内の署に請求すれば沖縄に計上される、と。
江尾
そういうことです。数字を独り歩きさせないための、大事な但し書きですよ。
図19 精神障害の支給決定件数(都道府県別の上位15・令和7年度)
出典:同 別添資料2・表2-5

さくら
支給決定件数で見ると、沖縄は全国15位ですね。
江尾
はい。人口規模でいえば全国の中位にある県ですから、順位としてはやや上ということになります。ただ、19件と20件の差で順位が3つ動くような世界です。順位そのものに、意味を持たせすぎないでください。
違う点その3 ── 非正規の比重が、全国より厚い
さくら
ほかに、実務で押さえておくべき違いはありますか。
江尾
あります。雇用構造です。ここが、いちばん実務に効く違いだと思っています。
図20 役員を除く雇用者に占める正規・非正規の割合
出典:総務省「労働力調査(基本集計)令和7年平均」、沖縄県「労働力調査 令和7年7月」

江尾
令和7年7月の沖縄県は、役員を除く雇用者のうち非正規が39.0%。全国は令和7年平均で36.5%ですから、2.5ポイント高い。パート、アルバイト、契約社員の比重が、全国より厚いのです。
さくら
全国の精神障害の支給決定は、正規職員・従業員が908件で、83.9%を占めていました。
江尾
そこです。全国の数字だけを見ていると、「対策は正社員向けでよい」と誤解しかねません。沖縄では、パート・アルバイトや契約社員、そして派遣労働者に、より意識的に目を向ける必要があります。ハラスメントの相談窓口を、非正規の方が実際に使える形になっているか。契約更新の場面で、退職を強要するような言動になっていないか。
さくら
「退職を強要された」は、令和7年度も全国で11件の支給決定がありましたね。
江尾
ありました。沖縄の雇用構造では、そこがより起きやすいと考えて、あらかじめ備えておく。これが、県内の顧問先に対する私たちの付加価値です。
結び ── 石の大きさは違っても、積み方の理屈は同じ
さくら
整理すると、制度も、リスクの所在も、打つべき手も全国と同じ。違うのは、件数の規模と、その数字を読むときの慎重さ、そして非正規の比重、ということでしょうか。
江尾
見事にまとめました。付け加えるなら、沖縄が全国と大きく違うのは、人口や所得や物価といった社会経済の構造の側であって、労務管理や安全衛生の中身ではない、ということです。
江尾
「沖縄だから特別な対策が要る」のではなく、「全国共通の最新の流れを、県の主力産業である医療・福祉、観光、運輸の現場で、確実に先取りする」。この言い方が、いちばん正確です。中城城の石垣と同じですよ。石の大きさは違っても、積み方の理屈は同じ。理屈を守って積んだ石垣だけが、500年もつのです。
さくら
今日のお話も、ゆし豆腐のように温かいうちに、顧問先へお届けしてまいります。
江尾
お願いします。てーげー、ではなく、きっちりと。それが、私たちの心意気です。
実務メモ 沖縄の顧問先に伝える四点
一つ、令和8年10月1日のカスタマーハラスメント措置義務化は全国一律であり、県内の事業場にも同じ日から適用されること。二つ、支給決定の多い医療・福祉、宿泊・飲食、運輸は県の主力産業と重なるため、全国の統計はそのまま自社のリスクとして読めること。三つ、県別の件数や認定率は母数が小さく年ごとの振れが大きいため、単年の増減で自社の状況を判断しないこと。四つ、非正規の比重が全国より高い分、パート・アルバイト・契約社員・派遣労働者を含めた相談体制の整備と、契約更新時の言動への注意が、より重要になること。
第4回のまとめ
第一に、適用される法制と認定基準、労災の重心が精神障害へ移っているという流れ、そして支給決定の多い業種が県の主力産業と重なるという三点で、沖縄と全国は同じです。「沖縄だから特別な対策」という発想は要りません。
第二に、違うのは規模です。沖縄県の雇用者数シェアは1.06%、過労死等の請求件数シェアは1.03%で、ほぼ人口規模どおりに収まっています。突出して多いとも少ないとも言えません。
第三に、県別の数値は母数が小さく、精神障害の認定率46.3%も単年では評価できません。実務で意識すべき違いは、非正規雇用の比率が39.0%と全国の36.5%より高いことで、非正規を含めた相談体制の整備が沖縄ではより重要になります。
第 5 回個別労働紛争から見た沖縄 ── 相談の入口と労災の出口
労災補償のとなりに、もう一つの統計があります。個別労働紛争解決制度の施行状況です。全国では「いじめ・嫌がらせ」が14年連続で最多であるのに対し、沖縄では「解雇」が最多です。この違いは何を意味するのか。労災補償のデータと重ねて読み解きます。
8月の終わり、事務所に二つの資料が並んだ。厚生労働省が7月7日に公表した全国版と、沖縄労働局が7月31日に公表した県版。どちらも「令和7年度個別労働紛争解決制度の施行状況」である。
さくらが、二つの円グラフを見比べて、首をかしげている。全国の一番大きな扇は「いじめ・嫌がらせ」。沖縄の一番大きな扇は「解雇」。同じ制度の、同じ年度の資料である。
◇ ◇ ◇
さくら
先生、これはどういうことでしょう。全国はいじめ・嫌がらせが1位なのに、沖縄は解雇が1位です。沖縄はハラスメントが少ない、ということでしょうか。
江尾
そう読みたくなりますね。しかし、そこが今日いちばんの落とし穴です。結論から申しますと、「少ない」のではなく「相談として現れていない」と読むべきです。順に見ていきましょう。
まず、数字を確かめる
図21 民事上の個別労働関係紛争 相談内容別の構成比(令和7年度)
出典:厚生労働省「令和7年度個別労働紛争解決制度の施行状況」(令和8年7月7日公表)、沖縄労働局「同」(令和8年7月31日公表)から算出

江尾
沖縄の民事上の紛争相談は延べ2,922件。解雇が472件で16.2%、いじめ・嫌がらせが316件で10.8%です。全国は延べ327,359件のうち、いじめ・嫌がらせが55,614件で17.0%、解雇は32,651件で10.0%。たしかに、順位はきれいに入れ替わっています。
江尾
そこを見てください。自己都合退職は沖縄11.2%に対し全国11.7%。労働条件の引下げは10.8%に対し10.2%。退職勧奨・雇止めは11.0%に対し12.8%。ほとんど同じです。つまり、違いは解雇といじめ・嫌がらせの2項目だけに、きれいに集中しているのです。
さくら
その2つが、シーソーのように入れ替わっている。
江尾
まさに。ですから、その2つに何が起きているかを見れば足ります。
「いじめが少ない」と読んではいけない、二つの理由
江尾
一つ目は、集計の事情です。令和4年4月に改正労働施策総合推進法が全面施行され、職場のパワーハラスメントに関する相談は、同法に基づいて対応されることになりました。その結果、これまで「いじめ・嫌がらせ」に計上されていたパワハラの相談が、この欄から外れたのです。
さくら
では、沖縄のいじめ・嫌がらせが減っているのは……。
図22 沖縄県の主な相談内容別の件数推移(10年間)
出典:沖縄労働局「令和7年度個別労働紛争解決制度の施行状況」別添2・第3図

江尾
見てのとおり、平成30年度の690件から令和7年度の316件へ、10年で54%減っています。しかし、この落ち込みの大半は制度上の振り替えです。実際、沖縄労働局の同法に関する相談件数は、令和4年度の473件から令和7年度は900件へ、1.9倍に増えています。いじめ・嫌がらせの316件だけを見て「沖縄はハラスメントが少ない」と言うのは、片手落ちなのです。
さくら
解雇のほうは、令和3年度を底に、はっきり増えていますね。令和7年度は472件で、前年度から13.7%増です。
江尾
そうです。そして令和4年度あたりで、二本の線が交差しています。
江尾
労災補償の側が、まったく逆の絵を示していることです。第4回で見たとおり、沖縄の精神障害の請求は53件で全国シェア1.07%、支給決定は19件で1.76%。雇用者数シェアの1.06%と比べれば、心理的負荷そのものは全国並み、支給決定に至ってはむしろ全国平均を上回る密度で発生しています。
さくら
相談窓口には出てこないのに、労災としては出てくる。
江尾
そういうことです。相談として現れていないことと、起きていないことは、まったく別なのです。
問題が表に出る「出口」が違う
江尾
二つの資料を重ねると、構図が見えてきます。これを見てください。
図23 沖縄県が全国に占める割合(個別労働紛争解決制度)
出典:同 両資料および労働力調査から算出

さくら
総合労働相談は0.82%、民事上の紛争相談は0.92%。雇用者数シェアの1.06%を下回っています。ところが、助言・指導の申出は2.35%、あっせんの申請は1.74%。ずいぶん高いですね。
江尾
雇用者シェアと比べれば、助言・指導は2.2倍、あっせんは1.6倍です。つまり、沖縄は相談の裾野が広いわけではないのに、いざ相談になると、行政の解決手続まで進む割合が高い。
江尾
人事部門や社内の相談窓口を持たない小規模事業場が多いから──というのが、私の見立てです。社内で処理される段階を経ないまま、こじれてから外に出てくる。相談件数は少ないのに、手続に乗る件数は多い。この非対称は、そう考えると筋が通ります。ただし、統計そのものが理由を語っているわけではありません。
さくら
労災でも、同じことが起きているのでしょうか。
江尾
断定はできません。沖縄の精神障害の認定率は46.3%で、全国の28.2%を上回りました。ただ、決定41件という母数では1件で2.4ポイント動きます。加えて、請求に至る事案が重いほうに偏っているという説明も考えられますが、これは実務感覚から述べているだけで、統計が示していることではありません。相談の構成比と労災の認定状況との間に、直接の因果関係が示されているわけでもない。ここは、はっきり分けておきます。
両方を説明する変数 ── 非正規の比重
さくら
解雇が多く、いじめが少ない。この二つを同時に説明できる理由はあるのでしょうか。
江尾
あります。第4回で見た非正規雇用の比重です。沖縄は役員を除く雇用者の39.0%が非正規で、全国の36.5%を上回ります。有期契約やパート・アルバイトが厚い職場では、紛争は「雇用の終了」という形で表面化しやすい。契約更新のたびに、解雇・雇止め・退職勧奨という、はっきりした争点が立ち上がるからです。
江尾
辞めれば終わりだと考えて、相談に至らないまま離職してしまう。解雇相談が多く、いじめ相談が少ないのは、同じ雇用構造の表と裏ではないか。そう考えると筋が通ります。もっとも、これも統計が証明していることではありません。雇用構造は、そう考える手がかりの一つです。
図24 あっせん申請の内容別構成比(令和7年度)
出典:同 両資料から算出

江尾
あっせんの中身を見ると、この読みが裏づけられます。沖縄は解雇が25件で32.1%。全国の18.2%を大きく上回ります。反対に、退職勧奨・雇止めは沖縄7.7%に対し全国17.1%です。沖縄では、話し合いの段階を飛ばして、解雇という形で決着がついてから紛争になっている。そう見えます。
労災補償への含意 ── 雇用終了の手続は、労災予防である
さくら
では、これは労災補償とどうつながるのでしょうか。
江尾
心理的負荷評価表を思い出してください。〈役割・地位の変化等〉という類型に、こういう出来事が並んでいます。「退職を強要された」「雇用契約期間の満了が迫った」「雇用形態や国籍、性別等を理由に、不利益な処遇等を受けた」「転勤・配置転換等があった」。
さくら
令和7年度の全国の支給決定では、退職を強要されたが11件、転勤・配置転換が12件でした。パワーハラスメントの222件に比べると、小さな数字です。
江尾
全国では小さい。しかし、沖縄のように雇用終了をめぐる紛争が多い環境では、この類型の比重は相対的に高まると考えるべきです。そして、いちばん大切なのはここです。解雇や雇止めの手続の粗さは、それ自体が心理的負荷の出来事になりうる。
さくら
つまり、雇用を終わらせる手続を整えることが……。
江尾
そのまま精神障害の労災予防になる、ということです。沖縄の顧問先に対しては、ハラスメント対策と並んで、ここを柱に据えるべきだと私は考えています。
江尾
就業規則の解雇事由と懲戒事由の点検。雇止めの予告と理由の明示。令和6年4月から義務づけられた更新上限の明示と、その変更理由の説明。無期転換の申込みができる旨と転換後の労働条件の明示。そして、退職勧奨の進め方です。
さくら
退職勧奨は、どこから「強要」になるのでしょう。
江尾
線を引くのは、回数、時間、場所、そして言辞です。何度も呼び出す。長時間にわたる。逃げ場のない個室で行う。人格を否定する言葉を使う。これらが重なれば、「退職を強要された」に転じます。1回の面談で、労働者に持ち帰る時間を与え、記録を残す。それだけで、ずいぶん違います。
結び ── 相談ゼロの窓口は、問題がない窓口ではない
さくら
ハラスメントのほうは、どうすればよいでしょう。相談として上がってこないのですから。
江尾
上がってこないこと自体を、問題として扱うのです。相談件数がゼロの窓口は、問題がない窓口ではなく、機能していない窓口かもしれません。とくに非正規の方が、その窓口を知っているか、使えると思っているか。ここを確かめてください。
さくら
令和8年10月1日のカスハラ措置義務化が、ちょうどよい機会になりますね。
江尾
そのとおりです。窓口を作り直すのではなく、既存の窓口を実質化する機会にする。そのときに、対象を正社員に限っていないか、周知が朝礼だけで終わっていないか、担当者が「お客様のことだから」と門前払いしていないか。順に点検していくのです。
さくら
沖縄は解雇が1位だから、ハラスメント対策は後回し──とはならないのですね。
江尾
なりません。むしろ逆です。相談として見えていない分だけ、労災という形で一気に表に出る。石垣も、外から見えるひび割れより、内側の詰め石の緩みのほうが恐ろしいのですよ。
読み方の注意
個別労働紛争の都道府県別は相談を受けた労働局ベース、労災補償の都道府県別は請求先の労働基準監督署ベースで、いずれも企業の本社所在地とは一致しません。また、沖縄県の相談・申出・申請はいずれも数十件から数千件の規模で、単年の増減の振れが大きくなります。沖縄県の「いじめ・嫌がらせ」の減少は、その大半が令和4年4月の制度上の振り替えによるものであり、実態の改善と即断することはできません。傾向は複数年で確認してください。
第5回のまとめ
第一に、沖縄と全国の差は、解雇(沖縄16.2%/全国10.0%)といじめ・嫌がらせ(10.8%/17.0%)の2項目に集中しており、他の相談内容の構成比はほぼ同じです。ただし「いじめ・嫌がらせが少ない」とは読めません。令和4年4月以降パワーハラスメントは別集計となり、沖縄労働局の同法相談は900件と令和4年度の1.9倍に増えているうえ、労災補償の側では精神障害の支給決定が全国シェア1.76%と雇用者シェアを上回っているからです。
第二に、沖縄は相談件数のシェア(0.82〜0.92%)が雇用者シェア(1.06%)を下回る一方、助言・指導は2.35%、あっせんは1.74%と大きく上回ります。これは、早期の相談と社内解決の仕組みを点検する材料になり得ます。ただし、この構成比が精神障害の認定状況を説明するものではなく、両者の因果関係が示されているわけでもありません。
第三に、非正規雇用の比率の高さ(39.0%)は、雇止めや契約更新を含む雇用終了の説明と手続を、重要な点検課題とする一事情です。就業規則の解雇事由、雇止めの予告と更新上限の明示、退職勧奨の進め方といった「雇用終了の手続」を整えることは、精神障害の予防という観点からも意味を持ちます。相談件数がゼロの窓口は、問題がない窓口ではありません。