賃金制度に関して現在発生している諸課題
■ てだこ社長
江尾先生、今日はお時間をいただきありがとうございます。実はうちの会社、ここ数年で賃金に関する問題がいろいろと表面化してきまして。特に最近、初任給を引き上げたんですが、そのあと社内がざわついているんです。
■ 江尾社労士
てだこ社長、お話はよくわかります。実は今、多くの中小企業が同じ悩みを抱えていらっしゃいます。初任給の引き上げは人材確保のために避けて通れない施策ですが、そこから派生する課題が複数同時に発生するんですね。今日は整理しながら一つずつ見ていきましょう。
1. 賃金カーブの平坦化(賃金格差の縮小)
■ てだこ社長
まさにそれなんです。うちは今年、大卒初任給を2万円上げて23万円にしました。沖縄の中小企業としては思い切った額です。ところが、入社5年目くらいの社員の月給が24万円台なんですよ。新人と5年目でたった1万円ちょっとしか変わらない。
■ 江尾社労士
典型的な「賃金カーブの平坦化」ですね。初任給を大幅に引き上げる一方で、既存社員の定期昇給額はこれまで通りの水準に据え置かれてしまうと、年次や経験に応じた賃金の上昇カーブが緩やかになります。結果として、社員間の賃金格差が縮小してしまうわけです。
■ てだこ社長
格差が縮小するって、一見いいことのように聞こえるんですが……。
■ 江尾社労士
ええ、そこが落とし穴です。23万円という初任給は、沖縄の相場からすると全国平均に肩を並べる水準で、採用面ではかなりの強みになります。ただ、本来、勤続年数や経験の蓄積に伴って賃金が上がっていくことは、従業員にとって「この会社で長く働く意味がある」というシグナルになっています。その差がなくなるということは、頑張っても頑張らなくても変わらない、と受け取られかねません。
■ てだこ社長
沖縄の他社さんでも同じようなことが起きているんですか?
■ 江尾社労士
はい。沖縄の中小企業の大卒初任給はまだ18万円台から21万円あたりがボリュームゾーンですが、人材確保のために20万円台前半まで引き上げる企業が急速に増えています。ところが既存社員の賃金テーブルは据え置きのままというケースが非常に多く、カーブの平坦化はどこでも深刻な問題になりつつあります。
▶ 賃金カーブの平坦化は、社員の「成長実感」と「将来への期待」を損なうリスクがある。沖縄でも初任給の引き上げ競争が進む中、既存社員の賃金テーブルの見直しが急務。
2. 既存社員の不満増大と離職リスクの増大
■ てだこ社長
実は先月、入社8年目の主任から「転職を考えています」と言われました。理由を聞くと、「後輩とほとんど給料が変わらないのに、自分のほうが責任も仕事量も多い」と。月給の差が2万円もないんです。正直、返す言葉がなかったです。
■ 江尾社労士
それは深刻ですね。賃金カーブの平坦化が進むと、まさにそういう反応が出てきます。先輩社員からすれば、後輩との賃金差が縮小しているのに、求められる役割や責任は以前と変わらない、あるいはむしろ増えている。この「報酬と貢献のアンバランス」が不満の根本です。
■ てだこ社長
以前は沖縄だと「地元で安定して働けるだけでありがたい」という感覚がありましたけど、最近はそうでもないですよね。転職サイトやスカウトサービスも普及して、うちの主任クラスなら県外も含めて条件のいいオファーがあるんでしょう。
■ 江尾社労士
おっしゃる通りです。リモートワークの普及で、沖縄にいながら県外企業の仕事をするという選択肢も現実的になってきました。転職市場が活性化している今、中堅社員がより良い条件を求めて離職するリスクは非常に高くなっています。そして失って初めて気づくんですが、中堅社員というのは現場のオペレーションを支えている要の存在です。抜けたときのダメージは新人の何倍にもなります。
▶ 中堅層の離職は「見えないコスト」が大きい。採用・育成コスト、ノウハウの喪失、チームへの影響を総合的に試算すべき。沖縄でもリモートワーク普及により人材流出リスクが高まっている。
3. 中途採用市場とのミスマッチ
■ てだこ社長
離職の話で思い出しましたが、逆に中途採用のほうでも困っています。先日、品質管理の経験者を採ろうとしたら、市場相場が年収450万円台で。うちの同じポジションの既存社員は年収360万円くらいなんですよ。
■ 江尾社労士
これは「中途採用市場とのミスマッチ」と呼ばれる問題ですね。既存社員の賃金がなかなか上がらない一方で、中途採用市場の賃金相場は労働力不足を背景にどんどん上昇しています。沖縄県内でも人手不足は深刻ですから、経験者を採用しようとすると県外相場に引っ張られて、既存社員との間で大きな賃金ギャップが生じてしまうわけです。
■ てだこ社長
中途の人を高く採用したら、既存社員が怒りますよね。かといって、相場に合わせないと人が採れない……。
■ 江尾社労士
まさにそのジレンマです。特にデジタル系の人材や、建設業務主任者のような特定の資格保有者については、市場賃金との乖離が非常に大きくなっています。正社員の処遇システムの枠に収まりきらないケースも出てきていますね。沖縄はもともと県内の賃金水準が全国より低い分、このギャップがより顕著に表れやすい構造です。この問題を放置すると、既存社員のモチベーション低下と中途採用の困難という二重苦に陥ります。
▶ 中途採用の賃金設定は「市場価値」と「社内公平性」の両立が鍵。職務グレード制やスキル手当の導入が有効な選択肢。
4. 人事評価にかかる昇給額の目減り
■ てだこ社長
もう一つ気になっているのが、人事評価の問題です。うちは年1回、人事評価に基づいて昇給しているんですが、最近「評価されても給料に反映されていない」という声が増えていまして。
■ 江尾社労士
これは構造的な問題なんです。毎年の定期昇給の原資が限られている中で、最低賃金の引き上げやベースアップに充てる分が増えると、人事評価に連動した昇給に回せる原資が相対的に減ってしまいます。たとえば、昇給原資の総額が1.5%だとして、そのうち1%がベースアップに使われると、評価反映に使えるのは0.5%しか残りません。
■ てだこ社長
なるほど……。A評価でもB評価でも昇給額がほとんど変わらないという状態になっているわけですね。
■ 江尾社労士
その通りです。沖縄県の最低賃金もここ数年で急速に上がっていますよね。従業員からすれば「頑張りが給料に反映されていない」と感じる原因がまさにここにあります。評価制度そのものの信頼性にも影響しますし、何より「どうせ頑張っても変わらない」という学習性無力感につながりかねません。これは組織のパフォーマンス全体に関わる問題です。
▶ 昇給配分の「見える化」が重要。ベースアップ分と評価反映分を分けて説明できる仕組みを整える。
5. 能力向上へのモチベーションの減退
■ てだこ社長
最後にもう一つ。うちはパートさんも多いんですが、最近パートの方々のモチベーションが下がっているように感じます。以前は資格を取ったり、新しい仕事を覚えたりすることに積極的だったんですが……。
■ 江尾社労士
これは最低賃金の急上昇と深く関係しています。最低賃金が毎年大幅に上がると、入ったばかりの人の時給もそれに合わせて引き上げられますよね。するとベテランのパートさんからすれば、何年もかけてスキルを積み上げてきたのに、新人と同じ時給になってしまう。「やってもやらなくても同じ」という空気が職場に広がって、能力向上や職務拡大に取り組む動機が失われてしまうんです。
■ てだこ社長
確かに。去年も最低賃金が上がって、最低賃金に近い時給で働いていたパートさんたちの時給を引き上げたんですが、もともと少し上の時給だったベテランのパートさんとほとんど差がなくなってしまって。「新しく入った人と時給が同じになった」と言われて困りました。正社員の賃金カーブの問題と同じ構図ですね。
■ 江尾社労士
まさにそうです。パートタイマーの賃金制度は今、最も見直しが必要な領域の一つです。最低賃金の上昇を前提とした賃金テーブルの再設計が急務ですね。具体的には、職務の難易度や習熟度に応じたランク制を導入して、「何ができるようになったら時給が上がるのか」を明確にする。自動的な最低賃金上昇とは別に、能力向上に対するインセンティブの仕組みを確保することが重要です。
▶ パートタイマーの賃金制度こそ、職務・能力ベースへの移行が急がれる。最低賃金上昇を織り込んだ「逆算型」の賃金テーブル設計を。
まとめ ― 5つの課題は「一つの根」でつながっている
■ 江尾社労士
てだこ社長、今日お話しした5つの課題を振り返ると、すべてが「賃金制度の構造が、現在の労働市場環境の変化に追いついていない」という一つの根本原因につながっていることがわかります。
■ てだこ社長
初任給引き上げ、最低賃金の上昇、中途採用の相場高騰……。外からの圧力に対して、社内の制度が追いついていない、ということですね。沖縄はもともと賃金水準が低かった分、この変化の波をもろに受けている感じがします。
■ 江尾社労士
その通りです。個別にパッチを当てるだけでは、モグラ叩きのようになってしまいます。必要なのは、賃金制度全体を「職務」と「成果・能力」を軸にした体系に見直すことです。年功的な要素をゼロにする必要はありませんが、「何をしているか」「どれだけ貢献しているか」が賃金に適切に反映される仕組みを作ることが、すべての課題への根本的な処方箋になります。
■ てだこ社長
大きな話ですが、避けて通れない課題だということはよくわかりました。具体的にどこから手をつければいいか、次回ぜひ詳しく教えてください。
■ 江尾社労士
もちろんです。次回は、あっぱれ商事さんの現行賃金データを拝見しながら、具体的な制度設計の方向性を一緒に検討しましょう。今日の5つの課題を「診断シート」としてお渡ししますので、各課題が御社でどの程度当てはまるか、チェックしておいていただけますか。
■ てだこ社長
ありがとうございます。さっそく確認してみます。
社会保険労務士 江尻育弘