対話で読みとく
さくら
所長、何を読んでいるのですか。
江尾社労士
厚生労働省が令和8年8月21日に公表した「賃金不払が疑われる事業場に対する監督指導結果」です。労働者からの申告などをきっかけに、労働基準監督署が立入調査をして、賃金の不払を見つけて是正させた——その1年分の結果をまとめたものですよ。
さくら
去年もありましたね。件数はどれくらいですか。
江尾社労士
令和7年で22,605件。前年より251件増えています。対象になった労働者は173,016人、不払が確認された金額の合計は128.6億円(正確には128億5,782万円)。金額のほうは前年から43億円あまり減っています。まず、この全体像を一枚の図で見てみましょう。
図1 監督指導で確認された賃金不払の割合(令和7年)。
出典:厚生労働省「賃金不払が疑われる事業場に対する監督指導結果(令和7年)」別紙・1(�@〜�B)より作成。
(※)翌年に繰り越したもの、倒産・事業主の行方不明で支払われなかったものを含みます。一部のみ支払われたものは「支払われた」に含みます。
さくら
件数でみると、指導で解決したのが96.1%なのですね。ほとんどは支払われている。
江尾社労士
そこが大事なところです。監督署の指導を受けて、令和7年中に使用者が賃金を支払って解決した事案は、件数で96.1%、対象労働者数で97.0%でした。ただ、注意したいのが二つ。一つは、この「解決」には、不払賃金の一部だけが支払われた事案も含まれること。もう一つは、残りの帯にも、翌年に繰り越された事案や、倒産・事業主の行方不明で支払われなかったものが混ざっていること。ですから「未払いのまま確定したのが3.9%」というわけではないのです。そのうえで——金額の帯を見てください。
さくら
あ、金額だと不払が14.5%まで上がっています。件数や人数の3〜4%とずいぶん違う。
江尾社労士
ここは私の見立てになりますが、一件あたりの金額が大きい事案が、割合を押し上げているのだと思います。注記にあるとおり、この中には翌年に繰り越された事案や、倒産・事業主の行方不明で解決しなかったものも含まれます。ですから「14.5%がそのまま未払いで確定」というわけではありません。ただ、件数は少なくても金額でみると重い、という構図は押さえておきたいところです。
さくら
業種によって差はあるのですか。うちの顧問先は、医療・福祉や、宿泊・飲食が多いですよね。
江尾社労士
まさにそこが気になるところです。金額でみると、こうなっています。
図2 業種別の賃金不払金額(令和7年・計 128.6 億円)。
出典:同資料・別紙・2(�B金額)より作成。「その他」には接客娯楽業・運輸交通業などを含みます。
江尾社労士
業種名がついたもので金額が一番大きいのは、保健衛生業で27.1億円。次いで製造業が26.0億円、商業が13.0億円と続きます。件数でみると順番が変わって、商業が4,701件で最多、次が製造業の4,370件。保健衛生業は3,620件で、これも上位です。この「保健衛生業」には、医療や保健衛生に関わる事業場が含まれます——雇用統計でいう「医療・福祉」とそのまま同じ区分ではない、という点は少し気に留めておいてください。
さくら
やっぱり、うちの顧問先が多い業種が並んでいますね……。
江尾社労士
ええ。ただ、これは全国の数字ですし、統計だけから原因を断定できるものではありません。ここからは私の見立てですが、医療・介護・福祉の現場のように、夜勤や交替勤務、複雑なシフト、複数の手当や割増賃金が重なる職場では、労働時間と賃金計算の連携に漏れが生じやすいと考えられます。業種の区分にかかわらず、注意が必要だということですね。裏を返せば、時間管理のしくみを整えれば防げる、ということでもある。では、実際にどんな不払が起きたのか。是正された事例から見ていきましょう。
さくら
正直に言うと……15分くらい、いいのでは、と思ってしまいました。
江尾社労士
その感覚こそが、一番あぶないのですよ、さくらさん。一日で15分でも、前後で30分。それが月20日、10人いれば——100時間分の賃金です。ソーキそばのだしと同じで、少しずつでも積み重なると、大きな鍋いっぱいになる。
さくら
でも、1分単位で全部つけるのは大変では……。時間の丸めって、してはいけないのですか。
江尾社労士
順番に言いますね。原則は、実際に労働した時間を適正に把握して、日々の始業・終業について、使用者に有利な一律の切り捨てをしないこと。「1分単位でなければ違法」と条文に書いてあるわけではありませんが、実務では1分単位で集計・管理する運用が基本になります。そのうえで、例外として認められている丸めが一つだけあります。1か月の時間外労働・休日労働・深夜労働を、それぞれ合計した時間について、30分未満を切り捨て、30分以上を1時間に切り上げる、という処理です。今回のように、日々の始業・終業で15分を切り捨てるのは、この例外に当たりません。しかも、その15分に実際に働いていた人がいた。そこが問題になったわけです。
さくら
着替えや清掃の時間も労働時間、というのも意外でした。
江尾社労士
ここは、名前だけで一律に決まるわけではないのです。着替え、清掃、朝礼、機械の立ち上げ、引き継ぎ——これらが労働時間になるかどうかは、会社がそれを義務づけ、業務に必要な行為として、使用者の指揮命令下で行わせているか。就業規則や指示、実際の運用に沿って判断します。会社が「これを着なさい」「終わったら掃除しなさい」と指示していて、それを事業場の中でやっているなら、指揮命令下の時間にあたります。ここからが私の見立てですが、顧問先で点検してほしいのは三つ。一つ目、ICカードやタイムカードの打刻時刻と、賃金計算に使う時間が食い違っていないか。打刻は正確でも、集計のときに丸めていないか。二つ目、着替え・朝礼・清掃・引き継ぎを労働時間として数えているか。三つ目、そして一番こわいのが「慣例」です。誰も悪気なく、昔からそうしている——その慣例こそ、一度立ち止まって見直す価値があります。
さくら
「固定残業代を入れているから、残業代はもう払わなくていい」と思っている経営者の方、けっこういらっしゃいますよね。
江尾社労士
そこが最大の誤解です。固定残業代は、残業代を払わなくていい制度ではありません。「あらかじめ、この時間分は先に払っておきますよ」という制度です。だから、決めた時間を超えたら、超えた分はきちんと精算して払う。今回の会社は、20時間までは払っていた。でも、超えた分を「もう払っているから」と確認すらしていなかった。ここが不払になったのです。
さくら
深夜分も別に払わないといけないのですね。
江尾社労士
そうです。深夜労働——午後10時から翌朝5時までの労働——の割増は、時間外の割増とは別に、計算して特定する必要があります。固定残業代が「時間外20時間分」と定めてあっても、それで深夜割増まで払ったことにはなりません。深夜に働いたら、その分の割増(2割5分以上)は別途必要です。時間外労働が深夜帯に及べば、時間外の2割5分と深夜の2割5分が重なって、合わせて5割以上。さらに、1か月60時間を超える法定時間外労働が深夜帯に及ぶ場合は、時間外部分が5割以上になりますから、深夜分と合わせて7割5分以上になります。
さくら
顧問先で点検するとしたら、どこを見ればいいでしょう。
江尾社労士
私の見立てでは、四つあります。一つ目、就業規則や雇用契約書・賃金規程で、固定残業代に当たる部分が基本給などと明確に区分され、「何時間分でいくらか」——対象の時間と金額の対応関係がはっきり書いてあるか。区別がつかない書き方だと、そもそも有効な固定残業代と認められません。二つ目、実際の労働時間を把握したうえで、毎月、固定残業の時間を超えた分を精算する運用になっているか。制度があっても、超過分を計算していなければ意味がありません。三つ目、深夜割増を別建てで払っているか。四つ目、最低賃金です。固定残業代を除いた通常の賃金部分だけで、時給に直したときに最低賃金を上回っているか。ここも忘れずに。
江尾社労士
ここからは送検事例です。是正事例との違いは、是正勧告を受けても直さなかった、というところ。まず一件目。
さくら
あれ……賃金を「払わなかった」のに、なぜ最低賃金法なのですか。労働基準法ではなくて。ちょっと混乱します。
江尾社労士
いい質問です。ここは私も顧問先に説明していて、よく「え?」と言われるところ。順番に整理しましょう。まず大前提として、賃金は全額を、決めた支払日に払わなければいけない。これが労働基準法第24条の「全額払い」の原則です。今回は、それを全く払っていなかった。
さくら
それなら労働基準法第24条違反、ですよね。
江尾社労士
そのとおり、24条違反にも当たります。ただ、「全く払っていない」ということは、実際に支払われた賃金を時間あたりに換算すると、最低賃金額を下回りますよね。だから、最低賃金以上を払うことを定めた最低賃金法第4条にも違反し得る。つまり、両方に当たり得るのです。この事例では、最低賃金法違反の疑いで送検されています。ただ、どの罪名で送検するかは、個別の事実関係や捜査上の判断によるもので、「全く払わないときは、いつも最低賃金法のほうで送検される」と一律に決まっているわけではありません。そこは押さえておきたいところです。
さくら
是正勧告のときに払っていれば、送検にはならなかったんでしょうか。
江尾社労士
この資料では、是正勧告のあとも是正されなかったことが、捜査に着手した経緯として示されています。ただ、送検されるかどうかは、それだけで決まるものではありません——違反の態様や故意性、反復性なども総合的にみて判断されます。そのうえで、ここは私の見立てですが、資金繰りが苦しいときこそ、賃金の支払は最優先にしてほしい。仕入れや家賃を待ってもらう相談はできても、従業員の生活は待ったなしです。もし本当に払えないなら、放置せず、事実確認、未払分の精算、再発防止を、監督署や私たちのような専門家と一緒に、迅速に進める。それが何より大事です。
さくら
約12万円……失礼な言い方かもしれませんが、送検された金額としては、思ったより小さいです。この金額でも送検されるのですね。
江尾社労士
そこが、この事例の一番のポイントです。送検されるかどうかは、金額の大きさだけで決まるものではありません。送検事例1は約130万円、こちらは約12万円。10倍以上の開きがありますが、どちらも送検されている。二つの事例に共通しているのは、是正勧告のあとも是正されなかったことが、捜査に着手した経緯として示されている、という点です。
さくら
金額よりも、指摘を受けたあとの対応が大きい、ということでしょうか。
江尾社労士
そう読める事例です。ただ、送検されるかどうかは、違反の態様、故意性、反復性、是正への対応などを総合的にみて判断されるもので、「是正すれば必ず免れる」「是正しなければ必ず送検される」と言い切れるものではありません。そのうえで確かなのは——監督署から指摘を受けた段階で、事実確認、未払分の支払、再発防止を、迅速かつ誠実に進めることが、何より重要だということです。
さくら
この事例、深夜労働は「全部」未払だったのですね。是正事例2でも深夜が抜けていました。
江尾社労士
よく気づきましたね。深夜割増の見落としは、本当に多い。時間外の残業代は意識していても、深夜の割増は別建てだという認識が薄い。宿泊業や医療・介護のように、夜勤や交代勤務のある顧問先では、特に要注意です。送検条文が第37条の第1項と第4項の両方になっているのは、時間外の割増(第1項)と深夜の割増(第4項)、その両方が抜けていたからです。
監修:社会保険労務士 江尻事務所
沖縄県中城村。中小企業の労務顧問として、予防労務と健康経営を軸に、就業規則の作成・改定、賃金・固定残業代の設計、労働時間管理の点検を支援しています。
労働時間の適正な把握と、打刻データ・賃金計算の連動点検。固定残業代制度の設計と運用の見直し。時間外・深夜・休日の割増賃金の計算チェック。就業規則・賃金規程の整備。そして、労働基準監督署の調査・是正勧告への対応まで。賃金不払を「起こさないしくみ」づくりを、江尻までお気軽にご相談ください。
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