特別号 「その協定、今すぐ点検してください」
──過半数代表者の機能強化と、既存協定の有効性監査──
今回取り上げる労務問題
トラブル1:「記録なんて残していません」──選出手続きの記録がなく、裁判で立証できなくなったケース
トラブル2:「代表者さんは選んだのですが、その後は何も……」──選出後の関係構築が途絶え、機能しない代表者になったケース
トラブル3:「確認したら、うちの協定が3種類ともグレーでした」──既存協定を棚卸ししたら問題が次々と浮かんだケース
はじめに
あっぱれ商事の人事部に、江尾社労士が訪ねてきた。前回の訪問で過半数代表者の「選び方」について学んだ画猫さんは、今回は別の問いを用意していた。
画猫さん:先生、前回の話を受けて、今日は3つ確認したいことがあります。一つ目は、選出記録はどこまで残せばよいのか。二つ目は、無事に代表者を選んだあと、会社はどう関わればよいのか。三つ目は、今ある協定に問題がないかどうか、自分たちで点検する方法があるのか、ということです。
江尾社労士:いい問いです。今日はその3つを順番に整理しましょう。
本号は、前号「過半数代表者の選び方、間違えていませんか?」の続編として位置づけた、シリーズ横断の特別号である。本則編・パートタイム社員編・嘱託社員編のいずれをお読みいただいている方にも共通して関わる内容として、今日は3つのトラブルと、実務的なチェックリストをお届けする。
前号では、過半数代表者の「選び方」の問題を取り上げた。会社が指名した代表者で締結した協定が無効になるリスク、就業規則改定の意見書を前年の代表者に流用するリスク、候補者を会社が絞り込んだ信任投票の問題。そのいずれもが、選出の起点における手続きの瑕疵であった。本号では視点を一歩進め、適法な選出手続きを経たとしても、「そのあと」に問題が生じるケースを取り上げる。記録を残さなかった場合のリスク、代表者を選んだあとの関係構築が途絶えた場合のリスク、そして既存協定を放置し続けた場合のリスクである。
登場人物
江尾(えび)社労士:ベテランの社会保険労務士。20年以上のキャリアを持ち、じっくりと、しかし的確に急所を突く。
画猫(がねこ)さん:株式会社あっぱれ商事の人事担当、3年目。前回の訪問で過半数代表者の「選び方」の問題に気づき、今回はその続きを問いに来た。
トラブル1:「記録なんて残していません」──選出手続きの記録がなく、裁判で立証できなくなったケース
あっぱれ商事の取引先である印刷業の桐生印刷では、毎年36協定を締結してきた。従業員数は30名ほどで、労働組合はない。総務担当の松本さんが一人で人事労務を担当しており、毎年3月になると協定の更新作業を行うのが習慣になっていた。選出方法は「社内に告知して、立候補者が出たら投票する」という方針を口頭で決めていたが、記録には残してこなかった。代表者が誰であるかは協定書にサインされた名前からわかるが、誰がどのように選ばれたかの経緯は、担当者の記憶の中にしかなかった。松本さん自身も「毎年きちんと手続きをしてきた」という認識があったため、記録の保存という発想に至らなかったのである。
あるとき、元社員が未払い残業代を求めて労働審判を申し立てた。会社が36協定の有効性を主張したところ、相手方は「過半数代表者の選出が適法に行われた証拠を提示してください」と求めた。会社の担当者は「確かに選挙を行った」と述べたが、その日時も参加者数も結果も、文書として残っていなかった。
過半数代表者の選出記録について、法律上は保存を義務づける明文規定は存在しない。しかし、「記録がない」という事実は「手続きをしなかった」という推認を招くことがある。口頭での証言だけでは証拠として弱く、桐生印刷は最終的に協定の適法性を立証できないと判断され、不利な条件での和解を余儀なくされた。
画猫さん:記録を残す義務は、法律には書いていないのですね。
江尾社労士:義務としての明文規定はありません。しかし、立証責任という観点から見ると、記録がなければ適法性を証明できない場面が生じます。労働基準監督署の調査でも、記録の提示を求められるケースは多い。法律が義務としていないからこそ、自主的に残しておく必要があるのです。
画猫さん:では、何を残せばよいのでしょうか。
江尾社労士:少なくとも4点です。まず、選出の目的と方法を告知した文書。社内メールであれば送信記録、掲示であれば写真や掲示板への掲出記録で構いません。次に、投票の実施日・参加者数・有効票数・結果。紙の投票なら集計表、メール投票なら受信フォルダのバックアップ、社内システムなら出力ログを保存します。3点目に、代表者が就任を受諾したことの確認。署名でも電子メールでも構いません。4点目に、選出された代表者の氏名と選出期間を全従業員に周知した記録です。
画猫さん:保存期間はどれくらいでしょうか。
江尾社労士:協定の有効期間中はもちろんのこと、終了後も一定期間は残しておくことをお勧めします。割増賃金の請求権の時効は3年ですから、少なくともそれ以上の期間は保存しておく必要があると考えてください。36協定であれば協定の終了日から3年間、変形労働時間制の協定であればその対象期間の終了日から3年間を目安にすることが実務上の基準になります。
画猫さん:記録は、選んだことの証拠であると同時に、選び方が適法だったことの証拠でもある、ということですね。
江尾社労士:そのとおりです。手続きの適法性は、書類によってしか証明できません。
桐生印刷のこのケースが示唆するのは、記録の不在がいかに会社を不利な立場に追い込むかということである。協定書に代表者の署名があるという事実だけでは、選出手続きの適法性を立証することはできない。代表者がどのような手続きで選ばれたか、その選出に会社の意向が介入していなかったか、選出の目的が事前に全従業員に周知されていたか──これらの事実は、協定書そのものからは読み取れない。裁判や労働審判においては、これらの事実を使用者側が証拠によって立証しなければならない。記録のない手続きは、存在しない手続きと同じ扱いを受けることがある。
トラブル2:「代表者さんは選んだのですが、その後は何も……」──選出後の関係構築が途絶え、機能しない代表者になったケース
あっぱれ商事の同業者である機器販売会社の朝日機工では、毎年適法な手続きで過半数代表者を選出していた。選出の記録も保存されていた。前号で取り上げたような「指名選出」や「流用」の問題はなく、投票による民主的な手続きが毎年行われていた。問題は、選んだあとの関わり方にあった。
代表者に選ばれた田中さんは、選出直後に人事から「就業規則の意見書にサインをお願いします」と依頼を受け、内容を確認する時間も与えられないまま署名した。その後、会社から田中さんへの連絡は途絶えた。翌年の36協定の更新時に、再び署名を求められた。田中さんは「去年もやったし、今年も同じでいいか」と思い、内容を読まずにサインした。この繰り返しが3年続いた。田中さんは自分が代表者として何をすべきか理解しないまま、サインする人になっていた。
あるとき、会社が変形労働時間制の労使協定を締結しようとした際に、一人の社員が「こんな協定、聞いていない」と声を上げた。田中さんに「代表者として何か聞きましたか」と問われた田中さんは「私には何も説明がなかった」と答えた。過半数代表者が内容を理解していないまま締結した協定の有効性について、社内で争いが生じた。
過半数代表者の役割は、サインをすることではない。会社から提示された協定の内容や就業規則の変更案を理解し、労働者の意見を集約し、必要であれば修正を求めて協議し、決まった内容を社内に周知することまでを担う。この一連のプロセスが機能して初めて、協定は実質的な労使合意の産物となる。
画猫さん:田中さんが怠慢だったわけではないということですね。
江尾社労士:そうです。田中さんには材料が何も与えられていませんでした。何のための協定か、どんな内容か、労働者にとってどんな意味があるか。そういった情報が代表者に届いていなければ、代表者は機能のしようがありません。
画猫さん:会社は何をすべきだったのでしょうか。
江尾社労士:使用者には、労働基準法施行規則第6条の2第4項に基づく配慮義務があります。代表者が事務を円滑に遂行できるよう、必要な配慮をしなければならないとされています。具体的には、協定の内容を説明した文書の提供、労働者の意見を集約するための時間と手段の確保、会議室や社内メール・イントラネットといった情報共有ツールの利用許可などが該当します。
画猫さん:つまり、選んで終わりではなく、代表者が機能できる環境を整える責任が会社にあるということですね。
江尾社労士:そうです。そして、代表者が協定の内容に疑問を持った場合の相談先も案内しておくことが望ましい。会社の顧問社労士や顧問弁護士は会社側の利益を代弁する立場ですから、代表者の相談先としては利益相反が生じる可能性があります。各都道府県に設置されている働き方改革推進支援センターや労働委員会などの外部機関を、代表者に案内しておくことを検討してください。
朝日機工では、翌年から代表者に対する事前説明の場を設けること、社内メールを使った意見集約の仕組みを整えること、任期制を導入して代表者が蓄積した知識を次に引き継ぐ体制を作ることを決めた。手続きの終着点ではなく、対話の出発点として過半数代表者を位置づけ直したことが、制度を機能させた。
朝日機工の事案が浮かび上がらせるのは、過半数代表者制度の「実質的な機能」という問題である。形式上は適法に選出されていても、代表者が協定の内容を理解せず、労働者の意見を集約せず、会社からの依頼を断れない関係の中でサインだけを続けているとすれば、それは制度の名を借りた形骸化である。制度が機能するためには、選出手続きの適法性と、選出後の実質的な活動の両方が必要である。会社がその両方について責任を持つことが、労使コミュニケーションを実質的なものにする前提条件となる。
トラブル3:「確認したら、うちの協定が3種類ともグレーでした」──既存協定を棚卸ししたら問題が次々と浮かんだケース
前回と今回の話を聞き、画猫さんは自社の協定が気になってきた。
画猫さん:先生、あっぱれ商事の協定を今すぐ点検したいのですが、どこから手をつければよいですか。
江尾社労士:まずは手元にある協定を全部並べることです。変形労働時間制の協定、36協定、賃金控除協定の3種類を優先して確認しましょう。
画猫さん:3種類とも、毎年更新しているものです。選出手続きもやっています。ただ、記録が揃っているかどうか、内容が実態に合っているかどうかは……正直、自信がありません。
江尾社労士:それが正直なところだと思います。毎年更新しているという事実は大切ですが、更新のたびに中身を確認しているかどうかは別の問題です。とりあえず前年のものをコピーして更新日だけ変えている、というケースは実務上非常に多い。その場合、問題が積み重なっていても誰も気づかないまま数年が経過することがあります。」
3種類の協定書をファイルから出してきた画猫さんは、江尾社労士の指摘を受けながら、次のことに気づいた。
変形労働時間制の協定については、選出記録の中に投票日の記載はあったが、全従業員への周知記録がなかった。また、協定書に記載された起算日と実際の変形対象期間の開始日がずれていた。さらに、昨年の更新時に届出の日付が有効期間の開始後になっていた。1年単位の変形労働時間制は協定の届出によって初めて制度として機能する性質のものであり、届出が有効期間の開始後になっていれば、その間は制度として機能しない期間が生じていた可能性がある。
36協定については、特別条項を付していたが、特別条項の発動要件が「業務上の必要がある場合」と記載されており、具体性を欠いていた。「顧客からの急な大量発注が集中した場合」など、客観的に判断できる要件を記載する必要がある。
賃金控除協定については、対象となる控除項目として「組合費・社宅費」と記載されていたが、現在は組合費を控除する必要はなくなっているにもかかわらず、協定書はそのまま更新され続けていた。控除する必要がない項目を残したまま更新することは、協定の内容が実態と乖離することを意味し、余計な混乱を生む可能性がある。
画猫さん:3種類それぞれに何かある、という状況ですね。
江尾社労士:そうです。ただ、直ちにすべてが無効とは言えないものもありますし、今から修正できるものもあります。大切なのは、問題を把握しないまま協定を更新し続けることのリスクです。毎年の更新は単なる事務作業ではなく、協定の内容と選出手続きの両方を見直す機会なのです。
画猫さん:点検の観点を、整理していただけますか。
江尾社労士:協定ごとに確認すべき項目は異なりますが、共通して問われる点は4つです。過半数代表者が適法に選出されたか。その選出記録が残っているか。協定の有効期間内に届出がなされているか。そして協定の内容が現在の実態と整合しているか。この4点を軸に、今のうちに棚卸しをしておくことをお勧めします。
画猫さんが感じた「3種類ともグレー」という感覚は、多くの会社の実態を反映している。協定の内容を最初に作成した際には問題がなかったとしても、毎年の更新の中で形式的に繰り返すうちに、実態との乖離が積み重なることがある。会社の状況が変わり、組合が解散し、業務内容が変化し、担当者が入れ替わっていく中で、協定だけが古い状態のまま更新されていく。こうした問題を発見するためには、年に一度、更新のタイミングで協定の内容を実態と照らし合わせる習慣が必要である。「去年と同じで」という発想が、制度の形骸化を招く最初の一歩になる。
既存協定の有効性チェックリスト
以下は、3種類の協定について、毎年の更新時に確認すべき項目を整理したものです。
■ 共通事項(3種類すべての協定に適用)
□ 過半数代表者が管理監督者でないことを確認した
□ 選出の目的を明示した告知文書を保存している
□ 投票の実施日・参加者数・有効票数・結果の記録を保存している
□ 代表者の就任受諾の確認(署名またはメール等)を保存している
□ 選出結果を全従業員に周知した記録を保存している
□ 選出記録を協定終了後3年間保存する体制を整えている
■ 変形労働時間制の協定(1年単位・1カ月単位)
□ 協定書の起算日と対象期間が整合している
□ 1年単位の場合、届出日が有効期間の開始日より前である(制度の性質上、有効期間の開始前に届出が必要)
□ 有効期間が終了する前に次の協定を締結・届出している
□ 対象労働者の範囲が現在の実態と一致している
□ 選出記録の中に全従業員への周知記録が含まれている
■ 36協定
□ 有効期間が1年と定められ、起算日が明記されている
□ 届出日が有効期間の開始日より前である
□ 特別条項の発動要件が具体的な事由(「顧客からの急な大量発注が集中した場合」等)で記載されている
□ 特別条項の発動回数の上限(年6回以内)が記載されている
□ 特別条項発動時の時間外労働時間の上限が記載されている
□ 協定内容を全従業員に周知している(掲示・書面交付・電子データ共有のいずれか)
■ 賃金控除協定(労働基準法第24条第1項)
□ 控除項目が現在実際に控除しているものと一致している
□ 控除しなくなった項目は協定から削除している
□ 新たに控除が必要になった項目は協定に追加している
□ 控除する金額または計算方法が協定書に明記されている
おわりに
今回の3つのトラブルを貫くテーマは、「選出して終わり」という発想の危うさである。記録を残さなければ、過去に適法な手続きをしていたとしても、それを証明する手段がなくなる。代表者を選んで放置すれば、制度としての労使合意は形骸化する。既存の協定を点検しなければ、毎年の更新が問題を積み重ねるだけの作業になる。
労使協定は、締結した瞬間から機能し始めるものではない。選出の適法性・記録の保全・代表者の機能・協定内容の現実との整合という4つの軸が揃って初めて、制度として実質的な効力を持つ。
画猫さん:先生、今日の話をまとめると、過半数代表者の制度は選出で始まり、記録で守り、関係構築で機能し、棚卸しで維持する、ということですね。
江尾社労士:そうです。そしてその4つが揃っていれば、万が一労基署の調査が入っても、退職した社員から申告があっても、会社は根拠を持って説明できる。
画猫さんは手帳に4つの軸を書き留めた。次の36協定の更新時期は、あと3カ月後に迫っていた。
今号と前号を通じて、過半数代表者制度は「雇用区分を問わず、会社全体に関わる制度」であることが改めて明確になった。正社員だけの問題でも、パートタイム社員だけの問題でも、嘱託社員だけの問題でもない。事業場に働くすべての労働者を代表する者が、適法に選ばれ、適切に機能し、その活動記録が保全されていること──この3点が揃って初めて、会社は協定を根拠に従業員に働き方のルールを適用できる立場に立てる。本チェックリストを年に一度、協定の更新時期に必ず活用していただきたい。
参照条文一覧
社会保険労務士 江尻育弘