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対話で読みとくカスタマーハラスメント── 精神科・心療内科クリニック編

「その言動は、症状か、ハラスメントか」

 

──「対話で読みとく」制度解説シリーズ 江尾社労士/さくら。判別が難しいグレーゾーンを中心に。

序 夏の終わりの相談室

七月末の夕方であった。日はまだ高いが、風にはわずかに湿り気があり、遠くの空には入道雲が居座っている。江尾社労士の事務所に、顧問先である精神科クリニックの事務長から相談が入り、スタッフのさくらが同席していた。

画面の向こうの事務長は、受付主任が体調を崩して休職寸前であると打ち明けた。ある患者への対応が、もう半年も続いているのだという。

さくら 先生、いま伺ったお話が、頭の中で整理しきれないのです。患者さんは病気で苦しんでおられる。その方が声を荒らげたり、何度も電話をかけてこられたりする。これは、病気の症状として受けとめるべきものなのでしょうか。それとも、カスタマーハラスメントとして線を引くべきものなのでしょうか。

江尾 さくらさん、そこが精神科のいちばん難しいところなのです。ほかの科であれば、怒鳴る、居座る、無理な要求をする──こうした行為は比較的はっきりとハラスメントだと言えます。ただし精神科では、その言動そのものが、患者さんの病気の一部として現れていることがあるのです。

江尾 だからこそ、今日は『判別が難しいケース』ばかりを、順番に見ていきましょう。答えを一つずつ、丁寧に確かめていくのです。

1 なぜ精神科クリニックのカスハラは判別が難しいのか

さくら まず、精神科クリニックのカスハラが特別だと言われるのは、どういうわけなのですか。

江尾 大きく三つの事情が重なっているのです。一つ目は、患者さんの過激な言動が、病気の症状として現れうるということ。統合失調症や妄想性の障害では、被害妄想や関係妄想から『毒を盛られた』『監視されている』という確信が生まれ、防衛的な訴えや攻撃に発展することがあります。境界性パーソナリティ障害では、医療者を理想化したあとに一転して激しく攻撃する、いわゆるスプリッティングが起こります。双極性障害の躁状態では脱抑制から易怒的になり、物質使用障害では薬への渇望が激しい言動を生みます。

さくら すると、本人の自由な意思だけで、そうなさっているとは言い切れないのですね。

江尾 そのとおりです。だからこそ現場のスタッフには『病気の症状なのだから、傾聴し、受けとめるべきではないか』という強い葛藤が生まれます。この葛藤が、初期対応を遅らせ、結果としてハラスメントを長期化させ、深刻にしてしまう。これが二つ目の事情です。

江尾 三つ目は、医師法第19条第1項の応召義務です。正当な理由がなければ診療を拒めない、というこの義務が、長らく医療機関に『耐えるしかない』という空気をつくってきました。この三つが絡み合うために、精神科のカスハラは判別も対応も難しいのです。

応召義務(医師法第19条第1項)──診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合に、正当な理由がなければこれを拒んではならないとする定め。ただし後述のとおり、暴言・暴力・執拗な迷惑行為で信頼関係が破壊された場合には『正当な理由』が認められる。

江尾 そして忘れてはならないのが、雇う側の義務です。労働契約法第5条は、使用者に、働く人の生命・身体の安全を確保する『安全配慮義務』を課しています。患者さんを支えることと、職員を守ること。この両方を、私たちは同時に果たさなければならないのです。

この章のポイント 精神科のカスハラは、@言動が症状として現れうる、Aだから受けとめるべきかと葛藤が生じ対応が遅れる、B応召義務が耐える空気をつくる、という三つが重なって判別が難しい。しかし雇う側には、労働契約法第5条の安全配慮義務が同時に課されている。

2 判別の物差し ── 二つの軸と、もう一つの問い

さくら では、症状かハラスメントか、どうやって見分ければよいのですか。担当者の感じ方だけでは、心もとないのです。

江尾 よい問いです。判別は、担当者個人の主観で行ってはいけません。厚生労働省のカスタマーハラスメント対策企業マニュアルは、二つの軸で考えることを示しています。一つ目の軸は『要求内容の妥当性』。二つ目の軸は『要求を通そうとする手段・態様の相当性』です。

江尾 この二つを掛け合わせると、次の表のように四つのマスに分かれます。


 

手段・態様が

相当

手段・態様が

不相当

要求内容が

妥当

A 正当な相談・要望

(誠実に対応する)

B 内容は正当だが手段が過剰

(カスハラになりうる/難所)

要求内容が

不当

C 態度は穏やかだが要求が過大

(カスハラになりうる/難所)

D 不当な要求+不相当な手段

(明確なカスハラ)


さくら Aは誠実に対応し、Dははっきり拒む。難しいのはBとCなのですね。

江尾 そうです。内容は正当でも、手段が社会通念上ゆきすぎていればカスハラになります。逆に、口調は穏やかでも、要求そのものが医学的裁量やルールを著しく逸脱して執拗であれば、これもカスハラになりうるのです。

江尾 そして精神科では、この二軸に、もう一つの問いが重なります。『その言動について、本人に責任を問えるのか──症状なのか、意図的なのか』という問いです。

さくら その問いと、二軸の判別とは、どう関わるのですか。

江尾 ここが肝心です。『責任を問えるか』と『職員の就業環境が害されているか』は、切り分けて考えるのです。たとえ症状に由来する言動であっても、職員が長時間拘束され、暴言にさらされ、業務が妨げられているという事実は、変わりません。つまり、本人を病者として守りながら、同時に職員も守る。この二つは両立させるべきものであって、どちらか一方を選ぶ話ではないのです。

この章のポイント 判別は主観ではなく、@要求内容の妥当性と、A手段・態様の相当性、という二軸で行う。難所はB(内容は正当だが手段が過剰)とC(穏やかだが要求が過大)。精神科ではさらに『症状か意図か』が重なるが、『本人に責任を問えるか』と『職員の環境が害されているか』は別問題として切り分ける。

3 グレーゾーン@ 処方をめぐる要求 ── 治療上の希望か、処方の強要か

事務長が最初に挙げたのは、睡眠薬をめぐる一件だった。

さくら ある患者さんが、睡眠薬をもっと出してほしいと強く求められた、と伺いました。眠れずに苦しんでおられるのなら、それは正当な訴えではないのですか。

江尾 眠れないという訴え自体は、まったく正当です。そこは表のAとして、誠実に耳を傾けるべきところです。問題は、医師が医学的な適応や安全性から増量できないと判断したあとに、何が起きるかなのです。

江尾 睡眠薬、抗不安薬、精神刺激薬といった向精神薬には、依存性を伴いうるものがあります。医学的に処方できないと医師が伝えたとき、患者さんが『殺すぞ』と口にしたり、受付の机を叩いて怒鳴ったりする。ここまで来れば、要求内容の当否とは別に、手段・態様が明らかに不相当です。表でいえばB、あるいはDに移っているのです。

さくら では、どのように伝えれば、応召義務違反だと責められずにすむのですか。

江尾 『条件付き診療継続』という考え方が役に立ちます。感情的に対立せず、診療を続けるための条件を、患者さんの行動の側に置いて、はっきりと示すのです。たとえば、こう伝えます。『医学的な適応がないため、そのお薬はお出しできません。当院の処方方針にどうしても納得いただけない場合は、他院への転院をご案内します』。

江尾 大声が続くときは、こう伝えます。『大声を出される状態が続くようであれば、本日の診察を行うことができません』。こうすると、診療を続けられるかどうかは、患者さんご自身の選択と行動しだいという形になります。拒否の理由が、こちらの一存ではなく、患者さんの行動に起因する。この形をとることで、応召義務違反の追及を避けながら、対応を限定できるのです。

向精神薬の過剰処方要求や特定薬剤の指定は、精神科でもっとも頻発するトラブルの一つ。医学的適応の説明は診療の一環であり、それを拒む暴言・威圧は『説明への反発』ではなく、手段・態様の不相当として評価する。

さくら ただ、こうして転院をご案内する、あるいは本日の診察を見合わせるというとき、気をつけておくべき前提はありますか。

江尾 大切な点です。この『条件付き診療継続』や転院の勧奨は、あくまで、救急搬送が必要な急性期や、自傷他害の差し迫った危険がある場合を除いて適用する、という前提を忘れてはいけません。応召義務の考え方でも、病状の深刻さに応じた緊急対応の必要性が、何よりも優先されます。命に関わる場面では、患者さんの態度がどうであれ、まず必要な医療につなぐのです。線を引けるのは、その差し迫った危険がない場面に限られます。

前提@──『条件付き診療継続』や転院勧奨は、救急搬送を要する急性期・自傷他害の差し迫った危険がある場合を除いて適用する。緊急対応の必要性が最優先(応召義務の考え方・厚労省の整理)。

この章のポイント 『眠れない』という訴えは正当(A)。しかし増量できないと伝えたあとの暴言・威圧は、内容の当否と切り離して手段・態様の不相当(B・D)として扱う。『医学的適応がないので処方できない/方針に従えない場合は転院を案内する』と、診療継続の条件を患者の行動の側に置いて伝える。ただしこれは、急性期・自傷他害の差し迫った危険がある場合を除く前提で運用する。

4 グレーゾーンA 診断書をめぐる要求 ── 正当な依頼か、虚偽記載の強要か

さくら 次は、診断書のことです。休職や傷病手当金のために診断書がほしい、というのは当然の権利だと思うのですが。

江尾 療養が必要な方が、休職や傷病手当金のために診断書を求めること自体は、正当な依頼です。ここもAから始まります。線を越えるのは、患者さんがご自分の望む病名や病状を『こう書いてほしい』と、事実と異なる記載や、過大な記載を強要してきたときです。

さくら 医師は、診察の結果に基づいて書くものですものね。

江尾 そのとおりです。診断書は、医師が診察という専門的裁量によって作成する文書です。事実に反する記載を求めることは、その裁量そのものを歪めようとする行為であり、表でいえばC──態度は丁寧でも内容が不当な要求です。さらに応じなければ『それなら自分がどうなっても知らないぞ』と、自傷や他害をほのめかして威嚇する。ここまで来れば、手段も不相当となり、Dに至ります。

さくら 自傷をほのめかされると、こちらも強く出られなくなってしまうのではないですか。

江尾 そこが、この類型のいちばん苦しいところです。ですから対応を二つに分けます。一つは、危機としての対応。本当に自傷他害のおそれがあるのなら、それは臨床の問題として、主治医の判断のもとで危機介入や適切な連携につなぎます。もう一つは、要求への対応。威嚇を通じて虚偽の診断書を書かせようとする行為には、応じない。命の安全は守る、しかし文書の内容は歪めさせない──この二つを、同じ場面でも切り分けるのです。

この章のポイント 診断書を求めること自体は正当(A)。虚偽・過大な記載の強要は、専門的裁量を歪める不当要求(C→D)。自傷他害の威嚇には、@臨床上の危機対応(主治医の判断で連携)と、A要求への対応(虚偽記載には応じない)を切り分ける。命の安全は守り、文書の内容は歪めさせない。

5 グレーゾーンB 被害妄想・関係妄想 ── 症状としての訴えと、職員への攻撃

さくら 先ほど先生がおっしゃった『毒を盛られた』『監視されている』という訴えは、まさに症状そのものではないのですか。それをカスハラと呼ぶのは、酷なようにも思うのです。

江尾 さくらさんの感じ方は、とても大切です。統合失調症や妄想性の障害による被害妄想・関係妄想は、まぎれもなく症状です。ですから『あなたは嘘をついている』と正面から否定してはいけません。臨床的には、訴えの背後にある不安や恐怖を受けとめる姿勢が求められます。

江尾 しかし、ここでも二つの層を分けるのです。訴えの内容を症状として受けとめることと、その訴えが職員への執拗な攻撃や業務妨害という形をとったときに、それを放置してよいかは、別の問題です。『毒を盛った看護師を出せ』と何時間も窓口に居座り、ほかの患者さんの診療が回らなくなる。ここまで来れば、就業環境は現に害されているのです。

さくら では、症状として受けとめながら、同時に線を引く。その線とは、具体的にどこなのですか。

江尾 行為の『中身』ではなく、『態様』に線を引くのです。訴えの中身がどれほど現実離れしていても、それ自体を責める必要はありません。しかし、大声、長時間の居座り、ほかの患者さんの妨げ──こうした態様に対しては、『その状態が続くようであれば本日の診察は行えません』と、はっきり伝える。症状は否定しない、けれども態様には線を引く。この分け方を、スタッフ全員で共有しておくことが肝心です。

この章のポイント 妄想に基づく訴えは症状であり、内容を頭ごなしに否定しない。しかし訴えが長時間の居座りや職員への攻撃という『態様』をとれば、就業環境は害されている。訴えの中身は受けとめ、態様には線を引く──この二層の分け方をスタッフ全員で共有する。

6 グレーゾーンC 理想化と攻撃の反転 ── 特定スタッフへの執着

さくら 受付主任が休職寸前になったのは、この件だと伺いました。ある患者さんが、最初はとても感謝してくださっていたのに、あるときから態度が一変した、と。

江尾 それが、境界性パーソナリティ障害などにみられるスプリッティングという現象です。医療者を極端に理想化していたのが、些細なことをきっかけに、一転して激しく攻撃し、支配しようとする。精神科では、患者さんの心の動きが医療者に向けられる『転移』という現象が、良くも悪くも起こりやすいのです。

さくら 『あなただけが理解してくれる』と言われていたのに、突然『裏切られた』と責められる──想像するだけで、つらいのです。

江尾 この類型の危険は、標的が特定の職員個人に集中することにあります。『あの人でなければ話さない』という執着が、勤務時間外の電話や、私的な連絡先を求める行為、時には自宅を訪ねるといった過剰な接触に発展することもあります。個人の好意や責任感で抱え込ませてはいけない類型なのです。

江尾 ですから対応の原則は、『個人ではなく組織で受ける』ことです。特定の職員を指名する要求には、担当を一人に固定せず、複数の職員で、あるいは管理職を交えて対応する。これは患者さんを見捨てることではありません。むしろ、特定の一人に依存しすぎる関係そのものが、患者さんにとっても職員にとっても危ういのです。窓口を組織に移すことが、双方を守ります。

特定の医療従事者への個人的な執着が、卑猥な発言や付きまといというストーカー的態様に至る例もある。この段階では、迷惑防止条例やストーカー規制の問題として、警察・弁護士との連携を早期に検討する。

この章のポイント スプリッティングでは理想化が一転して攻撃に変わり、標的が特定職員に集中する。個人の好意・責任感で抱え込ませない。担当を一人に固定せず、複数対応・管理職同席で『組織の窓口』に移す。過剰な接触・付きまといは早期に警察・弁護士連携を検討する。

7 グレーゾーンD 長時間拘束と反復架電 ── 不安ゆえの連絡か、業務妨害か

さくら 不安が強い患者さんが、何度も電話をかけてこられる。これも、不安の裏返しだと思うと、無下にはできないのです。

江尾 不安から連絡を取りたくなる気持ちは、症状としても理解できます。一度や二度の相談の電話は、診療の一部といってよいでしょう。ただし、一回の電話が30分を超えて続く、あるいは一日に何十回もかかってくる。これは話が別です。クリニックの電話回線を占有し、ほかの患者さんの緊急連絡や予約を受けられなくしてしまう。就業環境と、他患者の診療機会の、両方を害しているのです。

さくら 居座りのほうも同じですか。診察が終わっても診察室を出てくださらない、というお話もありました。

江尾 同じ構造です。診療時間の合理的な範囲を超えて診察室から退去しない、受付を長時間占有する。これらは、要求の中身に関わりなく、態様として業務を妨げています。刑法第130条後段の不退去罪に該当しうる行為でもあります。

江尾 こうした類型では、あらかじめルールを決めて周知しておくことが、何よりの支えになります。電話相談は一回あたり何分まで、診察時間外の連絡はどう扱うか。ルールを先に示しておけば、線を引くときに『あなただけを特別扱いしている』という話にはなりません。誰に対しても同じ基準で運用している、と言えるのです。

この章のポイント 不安からの連絡は理解できるが、30分超の長電話や一日数十回の架電、診察後の居座りは、態様として業務を妨げる(不退去罪=刑法第130条後段に該当しうる)。電話時間・時間外対応のルールをあらかじめ決めて周知し、『誰に対しても同じ基準』として線を引く。

8 グレーゾーンE インターネット上の書き込み ── 正当な感想か、事実無根の攻撃か

さくら 最近は、クチコミサイトに悪い評価を書かれた、というお話も多いのですね。患者さんが感想を書くこと自体は、自由なのではないですか。

江尾 受けた診療についての率直な感想や、正当な批判であれば、それは表現の自由の範囲です。そこに口を出すべきではありません。線を越えるのは、要求が拒まれた腹いせに、事実無根の内容や、著しく歪められた虚偽を書き込み、クリニックの社会的信用を落とそうとするときです。

さくら 匿名ですと、書いた方が誰なのか分からないのが、やっかいですね。

江尾 匿名性を隠れみのにした攻撃は、新規の患者さんの受診控えを招き、職員の心も削ります。ただし、泣き寝入りする必要はありません。事実無根あるいは名誉毀損に当たる投稿については、医療分野に詳しい弁護士を通じて、発信者情報の開示請求や、投稿の削除請求、損害賠償請求といった法的な手続きを進めることができます。

江尾 大切なのは、感情的に言い返さないことです。プラットフォーム上で反論の応酬をしても、事態は悪化します。記録を残し、専門家に委ねる。これが基本です。

この章のポイント 診療への率直な感想・正当な批判は表現の自由。事実無根・虚偽で信用を落とす投稿は別問題。プラットフォーム上で言い返さず、記録を保全し、医療に詳しい弁護士を通じて発信者情報開示・削除請求・損害賠償の手続きに委ねる。

9 合理的配慮の限界と、応召義務 ── 通知と判例が示した線

さくら ここまで伺って、まだ心に引っかかることがあるのです。障害のある方には合理的配慮をしなければならない、と聞きます。精神科の患者さんの言動も、その配慮の一環として、我慢すべきなのではないですか。

江尾 とても大事な問いです。障害者差別解消法により、事業者は障害のある方に合理的配慮を提供する義務を負います。ただし、この合理的配慮は『事業者に過大な負担を課さない範囲』に限られるのです。無制限ではありません。

江尾 厚生労働省の考え方でも、精神障害や精神症状が背景にあるとしても、無制限の時間拘束や、職員への暴言・暴力、脅迫までを『配慮の範囲』として甘受することは求められていません。配慮すべきことと、耐え忍ぶべきことは、違うのです。

さくら 応召義務との関係は、どう整理すればよいのですか。

江尾 令和元年12月25日に、厚生労働省が『医政発1225第4号』という通知を出しました。この通知は、病状の深刻さに応じた緊急対応の必要性を最優先としつつも、患者による暴言・暴力や執拗な迷惑行為によって、医療従事者との信頼関係が破壊されている場合には、診療を拒むことに『正当な理由』がある、と明確に示したのです。

江尾 そして、これを裏づける重要な裁判例があります。東京地方裁判所の平成27年9月28日判決です。

江尾社労士は、手元の資料に目を落とした。

江尾 この事案は、注意欠如・多動性障害(ADHD)の患者が、医師の処方方針に納得せず、中枢神経刺激薬の処方を執拗に要求し、警察官が出動する事態を繰り返させたため、病院が診療を拒否したというものです。患者側は応召義務違反を理由に損害賠償を求めましたが、裁判所は病院の拒否を妥当とし、請求を退けました。

江尾 この判決で裁判所は、こう述べています。『患者の問題行動が患者の精神疾患の結果である側面も否定できないが、そうであるからといって、病院の診療拒否に正当な理由がないということにはならない』。

さくら 症状に由来する言動であっても、著しい妨害となり、診療の継続が不可能になれば、拒否は正当化される──そういう基準が、はっきり示されたのですね。

江尾 そのとおりです。これは、精神科の現場を支える、とても心強い規範です。私たちは、患者さんの病を軽んじるのではありません。病に配慮したうえで、なお越えてはならない線がある、ということを、法もまた認めているのです。

さくら ただ、この判決のとおりにすれば、どのような場合でも必ず適法になる、と考えてよいのですか。

江尾 そこは慎重であるべきです。判例も通達も、あくまで個別の事情を踏まえて示されたものです。『同じようにやれば必ず適法だ』という保証ではありません。似た場面であっても、事案ごとに事実関係は異なります。ですから実際の対応にあたっては、その都度、主治医の臨床判断と、顧問弁護士の助言を仰ぐことが欠かせないのです。

参照:医師法第19条第1項(応召義務)/医政発1225第4号(令和元年12月25日)/東京地判平成27年9月28日/障害者差別解消法(合理的配慮、事業者の義務)。合理的配慮は『過大な負担を課さない範囲』に限られ、暴言・暴力・脅迫・無制限の時間拘束はその範囲外。

この章のポイント 合理的配慮は『過大な負担を課さない範囲』に限られ、暴言・暴力・脅迫・無制限の拘束は配慮の対象外。医政発1225第4号は、信頼関係が破壊された場合の診療拒否に正当理由があると明示。東京地判平成27年9月28日は、症状に由来する言動でも著しい妨害で診療継続が不可能なら拒否は正当化される、との規範を確立した。

10 沖縄という土地柄 ── 県内の相談体制と、島社会の近さ

さくら こうした対応は、沖縄の中では、どんな体制で支えられているのですか。

江尾 県内でも、医療従事者を守る基盤づくりが進んでいます。まず、精神科病院や総合病院の中に、ハラスメント行為への対処方針を明文化し、院内掲示やウェブサイトで公表する動きが広がってきました。県内のある精神科病院などでも、こうした基本方針やペイシェントハラスメントへの対応を掲げています。共通してみられるのは、暴言・暴力・威圧・正当な理由のない不退去には対応を中断して退去を求め、応じなければ警察へ通報すること、そして信頼関係が破壊された場合には緊急時を除いて以後の診療をお断りすること、さらに悪質な事例は顧問弁護士と連携して法的措置を検討し、被害を受けた職員のケアと研修を最優先で行うこと、この三点です。

県内の医療機関名や各院の方針の細部は、時期により変わりうる。顧問先で引用する際は、必ず当該機関の最新の公表内容を直接確認すること。

さくら 行政の窓口には、どんなところがあるのですか。

江尾 県が那覇市泉崎の県庁内に設けている『沖縄県医療安全相談センター』があります。ただし、その役割の範囲を正しく理解しておくことが大切です。このセンターは、医療に関する苦情や相談を受け付け、当事者が自主的に問題を解決できるよう助言する窓口です。医療機関と患者さんの間に入って仲介したり、医療機関に指導・監督を行ったり、対応の当否について法的な判断を下したりする立場にはないのです。

さくら それは、医療機関にとっては、むしろ安心につながるのですね。

江尾 鋭いところに気づかれました。裏を返せば、悪質なクレーマーが行政を通じて、医療機関に不当な裁定を強制する、ということが構造的にできない仕組みなのです。『行政に言いつけるぞ』という脅し文句は、この構造の前では力を持ちません。

江尾 もう一つ、精神保健の専門機関として、南風原町の『沖縄県立総合精神保健福祉センター』や、地域の保健所があります。ここでは、こころの電話相談や来所相談を行っています。注目すべきは、精神保健の専門家がそろうこの種の機関であっても、大声や暴言、相談員の尊厳を傷つける発言、理不尽な要求の強要、必要な限度を超える長時間の電話といった迷惑行為には、相談対応を打ち切る取り扱いが用意されている、ということです。

さくら 専門の行政機関でさえ、不当な言動を無制限に受けるわけではない。それが、民間クリニックの対策を後押しする根拠になるのですね。

江尾 そのとおりです。『専門機関なら、どんな言動も受けとめてくれるはずだ』という思い込みは、正しくありません。どこであっても、支援と、迷惑行為への線引きは両立するのです。


島社会の近さ ── だからこそ、組織で受ける

江尾 沖縄には、もう一つ特有の事情があります。島社会の近さです。模合や自治会、親戚の縁で、患者さんとスタッフが顔見知りである、ということが珍しくありません。ゆんたくの中で噂が広がりやすく、角を立てにくい。そのため、職員が一人で抱え込みやすいのです。

さくら 『あの人には強く言えない』『近所で噂になっては困る』と、飲み込んでしまうのですね。

江尾 ゆいまーるの心は、沖縄の大切な財産です。それは大切にしながら、しかし働く場では線を引く。地縁を人質にとられないために、あえて対応を『個人』から『組織』に切り替える。この切り替えが、島社会だからこそ、いっそう重要になるのです。

この章のポイント 県内では精神科病院等がカスハラ/ペイシェントハラスメント基本方針を公表し始めている(内容は要最新確認)。沖縄県医療安全相談センターは助言窓口で、仲介・指導・法的判断の権限はない=行政を通じた不当裁定の強制もできない。精神保健の専門機関でも迷惑行為には相談打ち切りの取り扱いがある。島社会の近さゆえ抱え込みやすいため、あえて『個人』から『組織』へ切り替える。

11 組織で受け止める ── 面的な対応の設計

さくら 個人ではなく組織で受ける、というお話が何度も出てきました。具体的には、何を準備しておけばよいのですか。

江尾 四つの柱で整理しましょう。一つ目は、方針の明文化と周知です。どこまでが正当な要望で、どこからが対応をお断りする行為なのか、あらかじめ基本方針にまとめ、院内に掲示しておく。事が起きてから決めるのではなく、『あらかじめ』決めておくことが肝心です。

江尾 二つ目は、記録と複数対応です。ハラスメントの立証、のちの労災申請、診療拒否の正当性の証明──そのどれにおいても、正確な事実の記録が決め手になります。日時、発言の内容、滞在時間、対応の経緯を残す。診察室や受付での録音、防犯カメラの設置は、あらかじめ院内掲示で周知しておけば、抑止にもなり、証拠にもなります。トラブルが起きたら、すぐに複数人で対応にあたるのです。

江尾 三つ目は、条件付き診療継続の標準化です。第3章でお話しした伝え方を、その場のスタッフの機転に頼るのではなく、共通の型として全員が使えるようにしておく。『大声が続くようであれば本日の診察は行えません』『医学的適応がないためこのお薬は処方できません』──こうした言い回しを、あらかじめ決めておくのです。

江尾 四つ目は、段階的なエスカレーションと外部連携です。担当者、管理職、そして必要に応じて警察・弁護士へと、どの段階で誰に引き継ぐかを決めておく。『殺すぞ』といった脅迫や、不退去罪に当たる著しい妨害には、ためらわず110番通報を行い、警察の介入を求めます。インターネット上の誹謗中傷には、弁護士を通じた手続きにつなぐのです。

さくら 110番通報という判断は、その場にいた職員が一人で下すには、重すぎるようにも思うのです。

江尾 よい気づきです。ですから、通報や退去命令といった判断は、個々のスタッフの単独判断に委ねてはいけません。医療安全委員会や院内規程に基づいて、誰が、どの段階で判断するのかという体制を、あらかじめ定めておくのです。そうすれば、現場の職員は『規程に沿って対応した』と言えますし、判断のぶれや、事後に責任を押し付け合うことも防げます。

前提A──不退去罪・脅迫での110番通報や退去命令は、医療安全委員会・院内規程に基づく判断体制のもとで行う。個々のスタッフの単独判断にしない。


一般身体科と精神科の違いを、押さえておく

江尾 最後に、一般の身体科と精神科とで、カスハラの現れ方がどう違うのかを、表にまとめておきましょう。備えの勘どころが見えてきます。


比較の観点

一般身体科クリニック

精神科・心療内科クリニック

主な紛争の要因

医療ミスの疑い、会計の誤り、接遇への不満、待ち時間

向精神薬など依存性薬物の要求、診断書内容の強要、過度の執着

加害行為の現れ方

突発的・一時的な怒声や過誤の追及

継続的・慢性的な長時間拘束、執拗な反復架電、不退去

要求の性質

金銭的補償、過失の承認、謝罪の要求

専門的裁量の歪曲、感情的な支配、自他害をほのめかす威嚇

関係が崩れる形

契約関係への不満に基づく一方的な断絶

理想化から激しい失望・攻撃への反転(転移感情の悪化)


この章のポイント 面的対応の四つの柱=@方針の明文化と周知(あらかじめ)、A記録と複数対応(録音・防犯カメラを掲示周知)、B条件付き診療継続の標準化(共通の言い回し)、C段階的エスカレーションと外部連携(脅迫・不退去は110番、誹謗中傷は弁護士)。精神科は継続的・慢性的で、専門的裁量の歪曲と感情的支配が特徴。

12 職員を守る ── 安全配慮義務と、これからの措置義務

さくら 患者さんを支えることばかり考えてきましたが、職員を守ることも、法律上の義務なのですね。

江尾 そうです。すでにお話しした労働契約法第5条の安全配慮義務によって、雇う側は、職員の生命・身体の安全を確保しなければなりません。カスハラが原因で、職員がうつ病や強い不安を発症した場合には、労災として認められることもあります。職員を守れなかったこと自体が、経営上のリスクになるのです。

江尾 そして、もう一つ大きな変化があります。改正された労働施策総合推進法により、カスタマーハラスメントについて、事業主に防止のための措置義務が課されることになりました。2026年10月1日の施行が予定されています。相談体制の整備、事後の適切な対応、被害を受けた職員への配慮──こうした取り組みが、努力ではなく義務になっていくのです。

さくら すると、これまでのように個人の我慢に頼る対応では、法律の求めにも応えられなくなる、ということですね。

江尾 そのとおりです。個人の耐え忍びに依存した、旧来のやり方から脱すること。法解釈に基づいた、断固とした診療制限のルールを持つこと。そして警察・弁護士・行政と連携した、包括的なリスク管理の体制を築くこと。これが、精神科クリニックが地域の精神医療の核であり続けるための、これからの条件なのです。

この章のポイント 労働契約法第5条の安全配慮義務により、雇う側は職員の安全を確保する義務を負う(カスハラによる不調は労災になりうる)。改正労働施策総合推進法のカスハラ措置義務が2026年10月1日施行予定。個人の我慢から、ルールと外部連携による組織的リスク管理へ。

補足 顧問先に説明するときに添える、三つの前提

さくら 先生、ここまでの対応の考え方を顧問先にお伝えするとき、誤解のないよう、必ず添えておくべき前提はありますか。

江尾 三つあります。どれも、ここまでのルールを安全に使っていただくための、大切な但し書きです。この三つを添えずに『断ってよい』とだけ伝わってしまうと、かえって危ういのです。

前提@ 条件付き診療拒否・転院勧奨は、救急搬送が必要な急性期や、自傷他害の差し迫った危険がある場合を除いて適用する。命に関わる場面では、態度のいかんにかかわらず、まず必要な医療につなぐ。

前提A 不退去罪や脅迫での110番通報・退去命令は、医療安全委員会や院内規程に基づく判断体制のもとで行い、個々のスタッフの単独判断にしない。誰が、どの段階で判断するかを、あらかじめ定めておく。

前提B 各種の判例・通達は、いずれも個別の事情を踏まえて示されたものであり、『同じようにやれば必ず適法』という保証ではない。実際の対応は事案ごとに、主治医の臨床判断と顧問弁護士の助言を仰ぐ。

さくら 『断ってよい』ではなく、『この前提のもとで、断ることができる』と伝えるのですね。

江尾 そのとおりです。前提を添えることが、顧問先を守り、ひいては患者さんを守ることにもつながるのです。

結び 症状に配慮し、線を引く

相談を終えるころには、日はようやく傾き、海のほうからぬるい夜風が窓を通り抜けていた。事務所の灯りが、机の上の資料を静かに照らしている。

さくら 先生、今日いちばん心に残ったのは、『症状は否定しない、けれども態様には線を引く』という言葉です。どちらか一方を選ぶのではないのですね。

江尾 そうなのです。患者さんの病を受けとめることと、職員を守ること。この二つは、対立するものではありません。むしろ、職員が安心して働ける場を保つことが、ほかの患者さんの診療を守り、ひいては、その患者さんご自身への適切な医療を守ることにもなるのです。

江尾 『職員を守ることが、患者さんを守ることになる』。この一言を、どうか現場の合言葉にしてください。線を引くことは、冷たさではありません。支え続けるための、備えなのです。

さくらは、手元のノートに、その言葉を書きとめた。夜の風が、もう一度、静かに部屋を通り抜けていった。


社会保険労務士 江尻育弘



参照した法令・ガイドライン・裁判例

医師法第19条第1項(応召義務)

労働契約法第5条(安全配慮義務)

改正労働施策総合推進法(カスタマーハラスメント防止の措置義務。2026年10月1日施行予定)

障害者差別解消法(合理的配慮の提供義務。ただし過大な負担を課さない範囲に限る)

刑法第130条後段(不退去罪)

医政発1225第4号(令和元年12月25日/応召義務をはじめとした診察治療の求めに対する適切な対応の在り方等について)

東京地方裁判所 平成27年9月28日判決(中枢神経刺激薬の処方要求と診療拒否の正当性)

厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」

沖縄県医療安全相談センター(那覇市泉崎・県庁内。助言窓口。仲介・指導・法的判断の権限は非保有)

沖縄県立総合精神保健福祉センター(南風原町。相談における迷惑行為への打ち切りの取り扱い)


※ 本冊子は精神科・心療内科クリニックの管理者・スタッフ向けの解説を目的とした対話形式の資料であり、個別事案の法的判断を保証するものではありません。実際の対応にあたっては、必要に応じて顧問弁護士・行政機関にご相談ください。県内医療機関の方針など時期により変わりうる情報は、引用時に最新の公表内容を直接ご確認ください。