・退職時の情報管理義務と秘密保持の継続
・競業避止義務と退職後のキャリア選択
退職は会社と社員の関係が終わる場面ですが、情報管理や秘密保持の義務はそこで終わるわけではありません。特に同業他社への転職が絡む場合、情報の持ち出しや顧客の引き抜きといった問題が生じやすく、就業規則の規定を正しく理解して対応することが求められます。
今回は、株式会社あっぱれ商事の人事部総務課で働く画猫さんが、顧問の江尾社労士のもとを訪れました。「退職時の情報管理・秘密保持」と「競業避止義務・顧客誘引禁止」について学んでいきましょう。
江尾社労士:労務問題の専門家。労務トラブルの予防に力を入れている。
画猫さん:人事部総務課の担当者。退職手続きの対応について学びたい。
画猫さん:「江尾先生、今日はよろしくお願いします。経理部のAさんが来月末で退職することになりました。転職先が同業他社らしく、上司のBさんが『会社の情報を持ち出されたら困る』と不安がっています」
江尾社労士:「第51条(退職時の留意事項)第3項を見てください。『正社員が退職するにあたっては、在職中に得た会社の情報、顧客情報、名刺および個人情報などを会社の指示に従って破棄または返還し、退職後はその情報をいかなる媒体としても保持してはならない』とあります」
画猫さん:「『いかなる媒体としても』というのがポイントですね」
江尾社労士:「そうです。紙の書類だけでなく、USBメモリ、個人のパソコン、スマートフォン、クラウドストレージなど、あらゆる形態での保持が禁止されています。テレワークが普及した現在、『自宅作業のため』『バックアップのため』と個人端末やクラウドに業務データを保存しているケースは珍しくありません。退職前に完全削除してもらい、削除したことの確認書に署名をもらってください」
画猫さん:「会社システムへのアクセス権限はどうすれば?」
江尾社労士:「退職日をもって即座に停止してください。メールアカウント、社内システム、VPN接続など、すべてのアクセス権を遮断します。IT部門と連携して、退職日当日または翌日朝一番で権限停止する手順を確立しておくことが重要です」
画猫さん:「退職後に情報を漏らしたら、どうなりますか?」
江尾社労士:「第51条第4項に『正社員は、退職後であっても、在職中に得た会社の情報、顧客情報および個人情報などを一切漏えいしてはならない』とあります。『退職後であっても』がポイントで、秘密保持義務は退職後も継続します。取引条件、原価構造、営業戦略、顧客リスト、技術情報など、在職中に知り得た機密を転職先で使ったり外部に漏らしたりすることは許されません」
画猫さん:「違反した場合は?」
江尾社労士:「第46条(損害賠償)が適用されます。『この損害賠償の責任は退職後も免れることはできない』と明記されており、情報漏えいで会社に損害が生じれば賠償請求できます。また、営業秘密として管理されている情報であれば、不正競争防止法による民事上の差止請求や刑事罰の対象にもなり得ます」
画猫さん:「退職時確認書は取ったほうがいいですか?」
江尾社労士:「お勧めします。第51条第3項の情報破棄・返還義務、第51条第4項の退職後秘密保持義務、違反時の損害賠償責任を明記した確認書に署名をもらうことで、社員の意識を高めトラブルを予防できます。サインを拒否されても就業規則の義務は消えませんが、その場合は口頭で説明し、説明した日時と内容を記録として残してください」
画猫さん:「Bさんは『そもそも同業他社への転職を禁止できないのか』と言っているのですが?」
江尾社労士:「第51条第6項に『競合する事業への就職または競合する事業を経営することについて、合理的な範囲で正社員の退職後の競業を一定期間制限することがある』とあります。ただし『合理的な範囲で』という限定つきです」
画猫さん:「無制限には禁止できないんですね」
江尾社労士:「競業避止義務は憲法第22条の『職業選択の自由』を制限するものですから、無制限に禁止すると裁判で無効とされます。裁判例では、守るべき利益の存在、社員の地位(機密へのアクセス度)、制限期間(一般に6カ月〜2年)、制限地域、代償措置(退職金上乗せ等)を総合判断します。代償措置なしの一方的な禁止は不合理と判断される可能性が高いです」
画猫さん:「Aさんは経理担当ですが、競業避止を主張できますか?」
江尾社労士:「一般的な経理業務だけなら難しいでしょう。経理の知識やスキルは汎用的で、御社固有の営業秘密とは言いにくいからです。ただし、原価構造、経営戦略、M&A計画など経営の機密に深く関与していたなら話は別です」
画猫さん:「では、転職自体は止められないということですか?」
江尾社労士:「同業他社への転職を止めることは難しいでしょう。しかし、ここで重要なのが第51条第5項です。『正社員は、退職にあたって自己または第三者の利益のために会社の顧客を誘導するなどの行為をしてはならない。これは退職後も同様とする』とあります」
画猫さん:「競業避止義務とは別の規定なんですね」
江尾社労士:「そうです。競業避止義務は『同業他社で働くこと』自体を制限するもの、顧客誘引禁止は『会社の顧客を奪うこと』を禁止するもの。この二つは別々の義務です。競業避止が認められなくても、顧客誘引禁止は独立して存在します」
画猫さん:「Bさんには何と説明すれば?」
江尾社労士:「『同業他社への転職自体を止めることは難しいですが、第51条第3項で情報持ち出し禁止、第51条第4項で退職後の秘密保持義務、第51条第5項で顧客誘引禁止が定められています。違反して損害が生じれば第46条で賠償請求できます。今の段階でAさんを疑うのではなく、退職時確認書で義務を再確認し、円満退職に向けて丁寧に対応することが大切です』と伝えてください」
画猫さん:「確かに、最初から疑ったら関係が悪くなりますね」
江尾社労士:「特に沖縄では、この点がとても重要です。県内経済圏が限られているため、同業種間での転職が本土より多く、『前職の同僚が今は取引先』『退職者が競合他社で働いている』ことが珍しくありません。円満退職した社員が将来、取引先担当者として再会したり、優秀な人材を紹介してくれることもあります。逆に退職トラブルは業界内に広まり、採用に悪影響が出ることも。沖縄のビジネスは人のつながりで成り立っている部分が大きいですから、『立つ鳥跡を濁さず』で送り出すことが会社のためにもなるんです」
江尾社労士:「今日は退職時の情報管理・秘密保持と、競業避止義務・顧客誘引禁止について学びました」
画猫さん:「情報管理では、第51条第3項で『いかなる媒体としても』保持禁止、第51条第4項で退職後も秘密保持義務継続、第46条で退職後も損害賠償責任を負うことを確認しました」
江尾社労士:「競業避止義務は第51条第6項で『合理的な範囲』でしか制限できず、第51条第5項の顧客誘引禁止はこれとは別の独立した義務です。沖縄では業界のつながりが密接なので、円満退職が特に大切です。困ったときは、遠慮なく相談してください」
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条文番号 |
条文タイトル |
主な関連トラブル |
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第46条 |
損害賠償 |
トラブル1、2 |
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第51条第3項 |
退職時の留意事項(情報破棄・返還) |
トラブル1 |
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第51条第4項 |
退職時の留意事項(秘密保持) |
トラブル1 |
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第51条第5項 |
退職時の留意事項(顧客誘引禁止) |
トラブル2 |
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第51条第6項 |
退職時の留意事項(競業避止) |
トラブル2 |
社会保険労務士 江尻育弘