第3章 異動および出張
今回取り上げる労務問題
・定年後の再雇用者に対し、定年前と大幅に異なる業務への配置転換を命じたところ、退職強要と主張されたケース
・再雇用時の労働契約で勤務地が限定されていたにもかかわらず転勤を命じ、契約違反として争われたケース
・在宅勤務命令の対象者選定が不公平だと苦情が入ったケース
はじめに
異動──配置転換、職種変更、転勤、出向。正社員であれば就業規則に基づき広く命じることができますが、嘱託社員は個別の労働契約で業務や勤務地が具体的に定められていることが多く、事情が異なります。今回は第7条(異動)、第8条(出張)、第8条の2(在宅勤務)を取り上げます。
登場人物紹介
江尾(えび)社労士──社会保険労務士として20年以上のキャリアを持つベテラン。
画猫(がねこ)さん──株式会社あっぱれ商事の人事部総務課に所属して3年目。
トラブル1:「倉庫の検品作業に回されました」──定年後の配置転換と退職強要の疑い
六月の沖縄は梅雨のただなかにある。各地の漁港では旧暦五月のハーリー(爬龍船競漕)の鉦が響く。豊漁と航海安全を祈願するこの行事──あっぱれ商事の人事部にも、結束が試される相談が持ち込まれた。
画猫さん:江尾先生、嘱託社員Aさんから苦情が入りました。Aさんは定年前、営業部の課長として20年以上活躍された方です。今年4月に再雇用されましたが、配属先が物流倉庫の検品作業になり、「退職強要ではないか」と訴えています。
江尾社労士:嘱託社員就業規則第7条第1項を確認しましょう。「業務の都合または労務提供状況の変化などにより、嘱託社員に異動を命じることがある」と定められています。ただし、どのような異動でも自由に命じられるわけではありません。
画猫さん:限界があるのですか。
江尾社労士:はい。東亜ペイント事件判決(最高裁・昭和61年)が判断枠組みを示しています。業務上の必要性があること、不当な動機がないこと、労働者に著しい不利益を負わせないこと──この3点です。Aさんの労働契約書には業務内容がどう記載されていますか。
画猫さん:「営業部門における顧客対応業務およびこれに付随する業務」と記載されています。
江尾社労士:重要な点です。個別の労働契約で業務が限定されている場合、その合意が就業規則の異動規定に優先します。労働契約法第7条ただし書きの考え方です。営業業務と合意しながら倉庫の検品に配転することは契約からの逸脱です。また第7条第2項は協議のうえで労働条件を変更すると定めており、一方的な配転は許されません。
画猫さん:Aさんと面談し、経験を活かせる業務への再配置を検討する方向でしょうか。
江尾社労士:そのとおりです。業務内容を変更する場合は、合理的な理由を書面で示し、労働契約を締結し直す必要があります。説明なく単純作業へ配転すれば、パワーハラスメント(労働施策総合推進法第30条の2)の疑いを招きます。
トラブル2:「那覇から東京への転勤は聞いていません」──勤務地限定合意と転勤命令
Aさんのケースを整理した矢先、別の相談が画猫さんのもとに届いた。
画猫さん:嘱託社員のBさんについてです。Bさんは再雇用後、那覇本社の経理課に勤務しています。東京支社の経理担当者が急に退職することになり、上長が転勤を打診したところ、「契約には那覇本社勤務と書いてある」と拒否されました。
江尾社労士:Bさんの労働契約書の勤務地はどう記載されていますか。
画猫さん:「就業の場所:那覇本社」と明記されています。
江尾社労士:明確な勤務地限定の合意です。第7条第1項に転勤を命じる旨の規定はありますが、個別の労働契約で勤務地が限定されていれば、その合意が優先します。Bさんの同意なく転勤を命じることはできません。
画猫さん:正社員なら就業規則に異動規定があれば転勤に従う義務がありますよね。嘱託社員との違いは何ですか。
江尾社労士:正社員の場合、包括的な異動規定があれば勤務地限定とは解されないのが一般的です。しかし嘱託社員は再雇用にあたって個別に協議し合意して契約を結びます。「那覇本社」は単なる配属通知ではなく、勤務地の限定と評価される可能性が高いのです。
画猫さん:契約の重みが正社員とは異なるのですね。
江尾社労士:加えて、長年那覇で生活してきた高齢者に転居を伴う転勤を命じることは著しい不利益にあたり得ます。労働契約法第3条第3項の「仕事と生活の調和への配慮」も踏まえてください。Bさんに転勤手当や住居支援を含めた条件を提示し協議する。同意が得られなければ別の方法を検討することになります。
トラブル3:「なぜ私だけ在宅勤務なのですか」──在宅勤務命令と公平な取扱い
梅雨空が続くなか、画猫さんのもとに3件目の相談が寄せられた。
画猫さん:嘱託社員のCさんについてです。Cさんは総務課で庶務業務を担当していますが、先月から在宅勤務を命じられています。同じ課のDさんは出社のままで、「なぜ自分だけ在宅なのか。排除されているように感じる」と苦情が入りました。
江尾社労士:第8条の2には「業務の都合により、嘱託社員に、在宅での勤務を命じることがある」と規定されています。Cさんにだけ命じた理由は何ですか。
画猫さん:上長は「Cさんの担当業務はデータ入力が中心で、在宅でも対応可能だから」と説明しています。
江尾社労士:業務内容に基づく合理的な判断であれば、在宅勤務命令は有効です。ただし、Cさんに理由を事前に説明していたか、在宅勤務が実質的な不利益──情報共有からの疎外、評価上の不利、孤立感──になっていないかが問題です。「エイジフレンドリーガイドライン」でも、高齢労働者が孤立せず相談できる職場づくりが求められています。60歳以上の労働災害が全体の約3割を占める現状を踏まえ、安全面・心理面の配慮は欠かせません。
画猫さん:在宅勤務の対象者選定基準を明確にしておくべきですね。
江尾社労士:そのとおりです。業務の性質、本人の希望、自宅の環境などを考慮した基準を明文化し周知しておきましょう。Cさんには理由を説明し、定期的な出社日を設けるなどの工夫を検討してください。在宅勤務規程が未整備であれば、この機会に整備することもお勧めします。
おわりに
窓の外では梅雨の雨脚がいくぶん弱まり、わずかに明るさが戻りつつある。
江尾社労士:今回は異動、転勤、在宅勤務の3場面を取り上げました。共通するポイントは、「契約の範囲内か」「合理的な理由があるか」「本人と協議したか」の3点を常に確認することです。
画猫さん:正社員とは異なる視点が必要であることが、よくわかりました。
江尾社労士:次回の第4章では、嘱託社員の労働時間、休日および休暇を取り上げます。年次有給休暇の通算や変形労働時間制の運用など、実務的な論点が多い分野です。お楽しみに。
参照条文一覧
|
条文・判例等 |
内容 |
主な関連トラブル |
|
嘱託社員就業規則 第7条第1項 |
異動命令権の根拠(配置転換・転勤・出向等) |
トラブル1・2 |
|
嘱託社員就業規則 第7条第2項 |
異動時の労働条件変更における協議 |
トラブル1・2 |
|
嘱託社員就業規則 第7条第3項 |
同意に基づく転籍 |
トラブル2(参考) |
|
嘱託社員就業規則 第8条 |
出張命令 |
(本章全般) |
|
嘱託社員就業規則 第8条の2 |
在宅勤務命令 |
トラブル3 |
|
労働契約法 第7条ただし書き |
就業規則と異なる個別合意の優先 |
トラブル1・2 |
|
労働契約法 第3条第3項 |
仕事と生活の調和への配慮 |
トラブル2・3 |
|
労働施策総合推進法 第30条の2 |
パワーハラスメント防止措置義務 |
トラブル1 |
|
最高裁 昭和61年7月14日判決(東亜ペイント事件) |
配転命令の権利濫用法理 |
トラブル1 |
|
エイジフレンドリーガイドライン |
高齢労働者の安全と健康確保の指針 |
トラブル3 |
社会保険労務士 江尻育弘