対話で読みとく 制度解説シリーズ
令和8年度 地域別最低賃金額改定の目安
── 過去最高の1,176円へ。ただし「決まった」わけではありません ──
7月も終わりに近づき、沖縄の島は一年でもっとも強い日差しに包まれていた。事務所の裏を流れる川のほとりでは、夜のあいだにひそやかに咲き、明け方には静かに水面へ散っていくサガリバナの花が、白い残り香をとどめている。その一夜限りの花のはかなさは、これから始まる長い夏の入り口を告げているかのようだった。
南の海には、この夏はじめての台風の便りも届きはじめている。そんな朝、さくらは一枚のニュース記事を手に、所長室の扉を叩いたのだ。
目安とは何か ── 「決まった金額」ではない
さくら 所長、おはようございます。今朝のニュースで、最低賃金が過去最高の1,176円になると報じられていました。もう決まったのですか。
江尾 おはよう、さくらさん。よく気づきました。ただし、正しく言うと、まだ決まったわけではないのです。昨日、令和8年、2026年7月28日に示されたのは、あくまで「目安」になります。
さくら 目安、ですか。金額まで発表されているのに、決まったわけではないのですか。
江尾 そうなのです。ここは毎年、多くの方が誤解されるところになります。順を追って説明しますね。まず、最低賃金は、国が全国一律で決めているわけではありません。都道府県ごとに、それぞれ金額が定められています。これを地域別最低賃金といいます。最低賃金法第9条に、その原則が置かれています。
さくら たしかに、東京と沖縄では金額が違うと聞いたことがあります。
江尾 そのとおりです。では、その都道府県ごとの金額を、誰が決めるのか。ここが大切なところになります。実際に決めるのは、各都道府県に置かれた地方最低賃金審議会の話し合いを経て、都道府県労働局長になります。最低賃金法第10条に定められた仕組みです。
さくら では、昨日ニュースになった全国の金額とは、何だったのですか。
江尾 よい質問です。国のレベルには、中央最低賃金審議会という会議体があります。最低賃金法第20条に基づいて置かれた審議会になります。この中央の審議会が、毎年夏に、その年はどのくらい引き上げるのが望ましいか、全国的な水準の「目安」を示すのです。昨日の1,176円という数字は、この目安になります。
さくら なるほど。国が目安を示して、それを参考に各県が実際の金額を決める、という二段構えなのですね。
江尾 そのとおりです。しかも、この目安には法的な拘束力はありません。あくまで、各県の地方審議会が話し合うときの物差しになります。ですから、これから各県での審議が始まり、正式な金額が固まるのは、まだ先の話になります。
今年の中身 ── 55円引上げ、時間額1,176円へ
さくら その目安の中身を、もう少し詳しく教えていただけますか。
江尾 もちろんです。今年、令和8年度の目安は、全国の加重平均で55円の引上げになりました。これで全国加重平均は、時間額1,176円になります。引上げ率にすると、およそ4.9パーセントです。金額としては、過去最高の水準になります。
さくら 55円、ですか。ずいぶん大きな金額に思えます。
江尾 たしかに、金額そのものは過去最高です。ただし、上げ幅という点で見ると、昨年度を下回っています。昨年、令和7年度の目安は、63円から64円の引上げでした。率にすると6パーセントを超えていました。ですから、勢いという意味では、昨年より少し落ち着いた、と見ることもできます。
さくら 金額は過去最高だけれど、上げ幅は前の年より小さい。両方の見方があるのですね。
江尾 そのとおりです。報道の見出しだけを見ると、過去最高という言葉が強く印象に残ります。しかし、顧問先にご説明するときは、上げ幅そのものは前年より縮んでいる、という点もあわせてお伝えするのが親切になります。
ランク別の目安 ── 地方を手厚く、格差を縮める
さくら 先ほど、全国の加重平均とおっしゃいました。県によって、引上げの目安は違うのですか。
江尾 よいところに気づきました。目安は、都道府県を3つのランクに分けて示されます。AランクからCランクまでの3区分です。以前は4区分でしたが、令和5年度から3区分に改められました。地域の間の格差を是正するという狙いがあったのです。
さくら 今年は、ランクごとにどのような目安になったのですか。
江尾 今年の目安は、Aランクが54円、BランクとCランクが、いずれも56円になりました。
さくら Aランクよりも、BランクとCランクのほうが、引上げの目安が大きいのですね。
江尾 そこに気づかれたのは、さすがです。ふつうに考えると、賃金の高い都市部のAランクほど、引上げ額も大きくなりそうに思えます。しかし今年は、あえて地方のBランク、Cランクを手厚くしています。東京や大阪などの都市部と、地方との金額の差を、少しでも縮めようという考え方になります。先ほど申し上げた、地域間の格差是正の流れが、今年の数字にもあらわれているのです。
さくら ちなみに、どの県がどのランクになるのですか。
江尾 Aランクは、埼玉、千葉、東京、神奈川、愛知、大阪の6都府県になります。Cランクには、青森や秋田、高知、宮崎、そして私たちの沖縄などが入ります。残りがBランクです。沖縄は、今年はBランク、Cランクと同じ、56円が目安ということになります。
この先の流れ ── 決定・発効はこれから
さくら これほど毎年上がっているのには、何か背景があるのですか。
江尾 政府が掲げている、最低賃金の全国加重平均を1,500円にするという目標が背景にあります。当初は「2020年代のうちに」とされていましたが、令和8年6月の「骨太の方針2026」で、達成時期は「遅くとも2030年代前半に、できる限り早期に」と改められました。労働生産性の向上を図りながら、という条件つきで、事実上、目標を少し後ろ倒しした形になります。今年の引上げ幅が前年より縮んだことも、この現実的な路線と重なって見えるのです。
さくら では、この目安が示されたあと、私たちは何をすればよいのですか。
江尾 ここからが、私たち労務の実務の出番になります。まず、これから8月にかけて、各都道府県の地方審議会で審議が行われます。そこで正式な金額が答申され、都道府県労働局長が決定します。目安はあくまで物差しですから、地方審議会が目安を上回る金額を決めることもあります。実際、昨年度は、多くの県で目安を超える改定が相次ぎました。
さくら 目安どおりに決まるとは限らない、ということですね。
江尾 そのとおりです。ですから、正式な金額が公示されるまでは、確定した数字として顧問先にお伝えするのは控えるのが賢明になります。そのうえで、新しい最低賃金が実際に効き始めるのは、例年おおむね10月ごろになります。昨年度は、県によって発効日が10月から翌年3月まで分かれました。今年も、発効日は県ごとに確認する必要があります。
顧問先への備え ── 予防にまさる対策なし
さくら 10月に向けて、顧問先には今から何を準備していただくとよいのでしょうか。
江尾 まず、いちばん賃金の低い方の時間額を洗い出していただくことになります。パートやアルバイトの方の時給はもちろんですが、見落としがちなのが月給制の方です。月給を時間あたりに換算したとき、改定後の最低賃金を下回っていないか、確かめる必要があります。最低賃金法第4条で、使用者は最低賃金以上を支払う義務を負っているからです。
さくら 月給の方も、時間に直して確かめるのですね。
江尾 そのとおりです。月給を、1か月の平均所定労働時間で割って、時間額を出します。その額が最低賃金を下回っていれば、たとえご本人が納得していても、法律違反になってしまいます。ここは予防的に、早めに確かめておくことが大切になります。
さくら ほかに、気をつける点はありますか。
江尾 賃金だけではありません。就業規則や賃金規程に時給や日給を書き込んでいる場合、その金額の見直しも要ります。労働条件通知書に記載した金額も同じです。改定後の最低賃金を下回る数字が残っていないか、あわせて点検しておくと安心になります。私たちがめざすのは、あとから慌てて直すことではありません。10月の改定を見据えて、今から静かに備えておく。予防にまさる対策はないのです。
所長の話を書き留めるさくらの手元に、窓からの光がやわらかく差し込んでいた。夜のうちに咲いて散るサガリバナの花のように、一つの目安もまた、やがて47の確定した金額へと、その姿を変えていく。その静かな移ろいの始まりを、二人はたしかに見つめていたのだ。
【要点の確認】
目安は中央最低賃金審議会が示す全国的な引上げの目安であり、法的拘束力はありません。実際の金額は各都道府県の地方最低賃金審議会の審議を経て、都道府県労働局長が決定・公示します(最低賃金法第9条・第10条・第20条)。令和8年度の目安は令和8年(2026年)7月28日に取りまとめられ、全国加重平均で55円の引上げ、目安どおりなら時間額1,176円(約4.9%増)。ランク別はAランク54円、B・Cランク56円です。発効は例年10月頃で、県ごとに異なります。
出典:厚生労働省 中央最低賃金審議会 目安に関する小委員会資料、日本経済新聞・朝日新聞・共同通信(2026年7月28日報道)、労務ドットコム(ランク別目安)ほか。数値は目安であり、確定額は各都道府県の公示をご確認ください。